CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

もっと困ろう

理事長がご機嫌うるわシューなさっているので、なつかしの信州へ行ってきた。が、出だしから予期せぬことの連続で、己の小ささを思い知らされる旅となったのだった。

可愛い子には旅をさせよ。
安穏としている自分にも旅をさせよ。

CHAZENがすべてみたいな狭い社会で生きている私にはいい薬になったと思う。インド思想以前の、シャバの哲学を思い出すいい機会でもあった。

不測の事態その1は、整備されていない砂利道でスタックして出られなくなってしまったこと。幸い管理された場所だったのでセンターに電話してヘルプを要請したら、除雪車が現れ牽引ワイヤで引っ張ってもらい脱出できた。田舎ではちょっとした「あるある」だから、さらっと軽く対応してくださったのだけど、その普通の親切さがなんだか身に沁みた。

同時に、自分の緊張感のなさを猛省。坂の途中で登りきれない気がしたのでUターンしようとして、安易にバックしてしまったのだ。ふだん「都会人はヤワだから」などとのたまっている自分が恥ずかしい。雪道でハマった経験は何度もあるが、牽引ワイヤが登場したのは40年の運転歴で初めてのことだ。

人並みに落ち込んだが、交通事故でもなく、理事長にも何事もなくよかったと気を取り直し、とりあえずは宿泊先のコテージに到着。

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理事長グッズ一式を持参して


あたたかい部屋で理事長がぐっすり眠っているので、車でひとっ走りして湖のほとりにある温泉に入ったら、緊張でこわばった身体がポカポカほぐれた。頭はまだ詮無いことを考えてしまうのだけれど、スヤスヤ眠る理事長に安心して私もいつしか眠りに落ちていた。

目が覚めたら12時半。ロフトのカーテンを開けてみると雪だった。みぞれの予報は出ていたけれど雪だ。しかも、すでにけっこう積もっている。不測の事態その2だ。春の雪は大丈夫とたかをくくってノーマルタイヤで来たが、ここは標高1300mなのだ。どうやって帰るかを案じ始めたら、もう眠れなくなってしまった......。

で、朝。

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一夜にして銀世界


春先の雪ではなくフツーに冬の雪。しかも、除雪車が来る気配もなく道路にも雪がかなり積もっている。いつもなら庭駆け回らんがばかりに喜ぶか美しい雪景色にうっとりするのだけど、とても気分じゃない。どうにも落ち着かないので、外に出てコテージの前を雪かき。

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最高の瞑想タイムだね


雪かきに出てきたオーナーさん。地元の人たちも、まさかここまで積もるとは思わなかったらしい。本館で朝食をいただきながら話を聞くと、通常このエリアは午前4時ごろから除雪車が入るのだけれど、3月31日で終了したとのこと。くーっ。よりによって4月1日、なんてタイミングが悪いのだ。エイプリルフールのジョークであってほしい。

国道に出れば除雪してあるだろうし、車の通りが多いので大丈夫だと思うが、そこまでの道のりがけっこうある。しかも、対向車とすれ違うのがやっとの、ガードレールのない道。下りだからスタックはしないけれど、スリップしたら斜面を転がり落ちることになる。さすがにそんな危ない橋を渡る気はない。

とりあえず昼まで様子を見ることにして、チェックアウト時間後もコテージを使ってていいよと言ってくださったお言葉に甘えて昼過ぎまで理事長はぬくぬくした部屋で寝て過ごし、私はオーナーさんに送っていただいて予定をこなすことができた。人の情けがまた沁みる。人って本来こんなふうに暖かいものであると田舎育ちの私は認識しているけれど、世の中そうでないことも多いからね。

人はひとりでは生きていけないのだなあという当たり前のことが、いつになく胸に迫る。都会にいるとすべてが人工的に整えられているので、見ず知らずの人に助けてもらうことなどめったにない。助けが必要ならお金を払って何かしらのサービスを購入すれば済むから、ご近所付き合いもしなくていい。他人様に面倒をかけずに生きていくことができる。

だけど、それはただのカナシイ思い上がりのような気がする。現代人はとかく人に迷惑をかけないようにと思って生きているけれど、他人に面倒をかけてもいいんじゃないか。「もらったらもらいっぱなし」と同じく、面倒をかけたらお礼やお返しをするのではなく、困ったときはお互い様で面倒をかけ合えばいいのではないか。人とのかかわり合いができなくなっている世の中だからこそ、ポストコロナはお互いに支え合い助け合うようにしたいもの。

そしてしみじみと思ったのは、受講してくれる人がいてはじめてCHAZENが成り立つのであり、かかわる人があってはじめて私という存在が成り立つのだということ。それこそが仏教でいうところの縁起ではないか。私たちは意識の性質上どうしても<我>という存在を中心に据えてものごとを見たり考えたりしてしまうけれど、他の生きとし生けるものとのかかわり合いがあってはじめて<我>があるのだ。

東京に引きこもっていた1年の間に忘れかけていたことを思い出させてもらった気がする。

おかげで雪を楽しめる余裕ができて、理事長にも久しぶりの雪を一瞬味わっていただき、

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雪の上でちっこするのが好きだからさ


シカちゃんたちにも出会い、

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全部で4頭いるのわかるかな


昼過ぎにようやく溶けて来たので、無事山を下りることができた。夕方東京に戻り、無傷で車を返すことができたときは、超めでたい気分になったよ。

もしかしたら、私が欲していたのはこのピンチだったのかもしれない。もちろんピンチ自体は欲していないけれど、山の分校を恋しく思う気持ちの半分は、泣きそうになりながらもなんとかその場を切り抜けてきた経験から得られるものであったし、今回も結果として得られた心境は、そのピンチをはるかに凌駕するものだった。困難があってこそ生きている手応えが得られ、謙虚にもなれる。そう思うと、あの砂利道にも雪にも、自分の不注意さにも感謝したいくらいだ。

もっと困ろう。もっと面倒なことをしよう。もっと人とかかわり合おう。己の小ささを知ったことで、ひとまわり大きくなれそうな気がする。