失われた時を求めて
禅の旅の余韻に浸っていた6月も終わり、梅雨明けを前に猛暑の毎日です。私の住んでいるところは山の上、森の中なので麓の村から上がってくるとかなり涼しいです。家の中も1階はひんやりしているので、もわっとしている日に扇風機をつけて空気を動かすくらいで過ごせています。何よりエアコンをつけない(そもそもない)ということがありがたいです。東京では熱帯夜が続くと、エアコンで体調を崩すことが多かったからです。
きのうは1年ぶりに里帰りしてきました。分校からは1時間で行けていたのですが、ここからだと3時間以上かかります。それでも高速道路を通らずともすいすい走れる山道は気持ちよく、景色も楽しめてなかなか楽しいドライブになります。そして犬がいないので気軽に宿泊施設に泊まることができます。以前から気になっていた小さなホテルに空室があったので、泊まってきました。
実家があったころは、帰ると朝早くモネの庭を模した池まで行って犬を放っていたのですが、先日そこで撮った動画を見ていたこともあり、久しぶりに思い出をたどるように散歩してみたくなりました。人工的に作られたドッグランでは絶対走らないシューですが、そこは自分の庭のように駆け回るのです。はしゃぎすぎて池に落ちたこともありましたね。
そんなことを思いながら歩いていると、傍にシューがいるような気がしてきました。脱兎の如く駆け回ったり、置いていかれないかチラチラこちらを気にしながらも縦横無尽に走り回るシューの姿が蘇ります。涙はたくさん流したほうがいいので、誰もいないことですし、思い切り泣きながら歩きました。
時間が早すぎて睡蓮はまだほとんどが蕾のまま。
なんというかけがえのない時間だったことか。
そして、なぜ人はかくも、愛しい存在との時間が失われることを嘆くのでしょう。
何千年も前から、人は同じ嘆きを味わい、その苦しみから解き放たれる道を求め、ついにお釈迦さまの悟りへとつながっていったのだと思うと人間の根本はそのころから変わらない、千年という時間はほんの短い時間でしかないことを思い知らされます。実際、宇宙スケールで考えてみれば、それはほんの瞬間にすぎないわけです。
これまでもお釈迦さま推しだった私ですが、原始仏典のクラスを始めてから、今まで以上にお釈迦さまの説かれたこと、お釈迦さまの在り方の偉大さを知り、ますます仏教の教えに魅了されています。また、最初にそれらを読んだ十数年前も深く感じ入っていたつもりでしたが、今思えば理解がまったく浅かったことに気づき愕然とします。
これから続く暑い夏の間は、ひんやりした室内に引きこもってインド思想の学びを深めたいと思っています。
以上、近況報告ならぬ心境報告でした。
みなさまもどうぞ御身御大切に、この夏を乗り切ってください。