CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

お山の文化事情

今年も暑い夏となりました。
移住したありがたさを最も実感する時節です。こちらでも日中かなり気温が上がりますが、たまに扇風機をつけるくらいで十分です。夏の体調不良に悩まされてきた身にとっては、漢方なくても普通に生活できることが夢のようです。

東京が恋しくなることはないのですが、東京だったらなあと思うことがひとつだけあります。それが図書館。

蔵書を増やしたくない私は、かなりディープに図書館を利用していたのですが、読みたい本を検索してもこちらの図書館にはまずありません。図書館の棚を見ても、広く一般受けする本しか置いていません。田舎の優れたところは人が少ないことなのですが、その分多様性も、専門的なニーズも少ないのです。東京は人の多さゆえにさまざまな需要があり、図書館のラインナップも充実するわけです。

とはいえ、<読みたい>本は読めずとも<読むべき>本は家にいくらでもあるので、無駄な読書をせずに済み、かえってよかったと今は思っています。

あとは、たまにトーハク(東京国立博物館)が恋しくなりますが、「たまに」なので、問題はありません。それに市内には「平山郁夫シルクロード美術館」があり、そこではトーハクのアジア館のような展示が見られました。規模は小さくても充実していて、トーハク並みにテンション上がり、すっかり上機嫌になりました。

西域の仏像はもれなくイケメン


音楽方面では、先日ミニコンサートの機会がありました。3月から地元のお寺で坐禅と朝課に参加させていただいているのですが、そのお寺でヴァイオリンの演奏会が開かれたのです。


住職があいさつで言われていたことには、先先代の時代には、隣にある小学校の勉強になじめない子どもが、お寺の畑を手伝ったり、果樹をもいだりしていたのだそうです。それ、今の時代に必要な「保健室」的存在だと思いました。かつてそうであったように、お寺が檀家さんを超えて地域のオアシス的な存在であったり、集いの場であったりしたらすてきです。そのための試みをなさるお寺がさらに増えることを願っています。

音響とかそういうことは問題でなく、開け放たれた窓から時おり涼やかな風が通り抜けるお寺の空間で、バッハの調べを聴くのは心地よいものでした。さらに、演奏の間には朗読もあり、それがまたすばらしかったのです。石牟礼道子さんの「花を奉る」という詩でした。まるで舞台に立ってお芝居をしているかのような朗読が、とてもドラマティックな響きで胸に迫ってきました。

家に帰ってから、もう一度目で詩を味わいたいと検索したら、朝日新聞のページが出てきました。詩とともに石牟礼道子さんのインタビューが載っていて、そこにあった言葉に惹きつけられました。

死と生はつながっていると思っています。ほかの生物の死に取り囲まれて、花が開く。私たちは、ほかの人たちの死によって生かされている。


その日はまたヒロシマ原爆記念日でもありました。

一年でいちばん暑いこの時期の、広島に始まり、長崎、そして終戦と続く黙祷の日々は、二度とあの悲惨な経験をすまいという誓いだと長年信じてきましたが、ほんの数十年でまた同じ過ちを繰り返すともわからなくなっています。

このブログでもときおり、そういう世界の、また日本の政治に対する怒りを露わにして、ひとりでも多くの人に行動してほしいと願ってきましたが、仏道を学ぶうちに考えが変化してきました。社会を、世界を変えるためになすべきことは何であるか。そんなことを新しい視点で考え、実現していきたいと思っています。

......といつの間にか話が逸れてしまいましたが、自然のなかにどっぷり浸っている毎日では、こんなちょっとした「文化」の風が、とても心地よい刺激になります。外が暑い間は主に家の中で書物と向き合いつつも、山を歩き、生き物を愛で、自然のなかで暮らす歓びを味わう毎日です。