CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

差別と偏見について考えたら思い出したこと

見た目問題に関する写真展を見に行った。

差別と偏見について考えた。
偏見とはなんであろうかと考えた。

浮かんできたのは、脳性まひだった父の弟のこと。
生まれつき体が不自由で、後半生は寝たきりとなり、祖父母と前後して他界した叔父は、おじさんというよりはイトコのような存在で、親戚中がそう呼んでいたようにミツオちゃんと呼んでいた。若い時はよくウチに滞在しており、一人っ子の私は、家に友達がいるようでうれしくて、さまざまな子どもの遊びに付き合わせたものだ。

ミツオちゃんは運動機能には障害があってもそのころはまだ自分で歩けたし、明確な言語をしゃべれなくてもコミュニケーションはとれて、喜怒哀楽も豊かだった。思考には問題がないので五目並べをよくやった記憶がある。それにも飽きてくると、言葉の代わりにサインを考え出してゲームや遊びのルールをつくっては無理やり遊び相手になってもらったのだった。

その時の自分は純粋無垢そのものだった。
うまく歩けない、アーとかウーという言葉しか出ないミツオちゃんをただそのままの存在として受け止め、無邪気に遊んでいた。それはたぶん、ミツオちゃんが父の親兄弟みんなから愛されていたからだと思うのだけれど、奇異な目で見ることもなければ、接し方に戸惑うこともなかった。何もかもをただそのまま受け止めていた。

あるとき、2年くらい上の男子がミツオちゃんを見て「なんだあいつ、バカじゃねえの」と言った。

ひどく腹が立ったし、ショックだったので今でもその光景が忘れられない。
そういう体験を経て、あるいは必然的に仕入れるさまざまな情報から、私の中でもミツオちゃんに対する特別な目ができていったのだろうか。そのへんのことは覚えていない。

思春期に入った私は、今まで気にもしなかったことに嫌悪を感じるようになった。単にオッサン=汚いという思春期特有の感情で父の使ったタオルでは顔を拭きたくなかった。そのナゾの嫌悪感は、垂れてくるよだれを拭き拭きスプーンでごはんを口に入れるミツオちゃんにも発生した。同時にそう思う自分をよくないと否定する気持ちもあり、たいへん複雑な思いだったように思う。

その後ほどなくしてミツオちゃんは寝たきりになり、私も高校大学と親元を離れ、父の実家にもほとんど行くことがなかった。晩年は枕元でほんのご挨拶をしたくらいだった。こういう私の変化をミツオちゃんがどう感じていたのか想像すると、今でも心が痛む。

人は思春期を境に分別がつき、悩み多き自己に変わっていくのだろう。
オトナは思い込み、刷り込み、先入観、インド哲学で言うところのサンスカーラ(潜在印象)のかたまりだ。それはほとんどが無意識レベルに染み付いているものだし、それを是正しようと意識レベルで思えば思うほど浮き上がってくるものでもある。理性でコントロールしようとするのが分別なのだから、理性でなんとかしようと思っても限界がある。

分別を取り除くことはできないし、分別がまったくなかったら社会人として支障をきたす。それがオトナになるということ。無邪気にすべてをそのまま受け入れていた、あの純真だった昔に戻ることはできない。


ところが、だ。
昔の私に戻ることはできなくても、純粋無垢になる方法はある。

それがヨガ。それが坐禅

ヨガや坐禅は、分別を介さずにものごとをそのままとらえるためのプラクティスなの。
内山老師が「生命の実物」と言われたような、ただのいのちになるプラクティス。

人はオトナになる過程で社会生活に必要な分別を身に着けると同時に、いらない観念をもまとってしまう。コドモでさえも、学校や家庭でたくさんの刷り込みを受けながら育つ。それらを少しずつ捨てていくための練習をしているのがこの修行だと私は思っている。

このプラクティスはなにか別の優れた人になるためのものではなく、自分が本来持っていた、今でもちゃんとそこにあるはずの「ただのいのちとしての私」を取り戻すことなのだと思う。

だけど、いったん分別を身に纏ってしまった私たちにはそれが難しいので、体操風味でわかりやすくしたり、理論でもって理性にも働きかけながら、あれやこれやの手段を駆使してなんとかそこを目指しているというわけ。


冒頭の見た目問題に戻ると、当事者たちはあえて自らの姿を人目にさらすことによって楽になっているのだろうと想像される。隠したり、逃げたり、封じ込めてしまうことよりも、それをなんでもないこととして受け止めることのほうがずっと楽だとわかったから。本人が問題だと思わなければそれは問題にはならない。そんなことを思った。

こういう機会があることで、当事者も周囲もより自然に受け止められるようになっていくのだろうね。
もっと早くお知らせすればよかったけれど、この写真展は明日までやっています。

写真展「無自覚なボクが、いま言いたいこと。 I know that I know nothing.」 – LE DECO(ルデコ)ギャラリー・ルデコ


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分別がないことにかけては首位を独占する部長

プリミティブに還る

カラッと晴れるのが冬なのに、このところ空はいつもどんより。世界終末時計もぐっと進んだそうだし、リアルに地球の将来を案じてしまう。

今朝、目が覚めたら頭痛がして風邪の様相。
きのう雨の中を外出して邪気が入ったのかもしれない。マイソールクラスが終わってから断続的に寝続けて復活。あっためることと眠ることで軽い風邪はよくなる。それは身体からのアラートなのだから。

元気なときはたとえ昼寝してもせいぜい30分くらいだ。起きようとしても起き上がれなくて何時間も眠れるのはあきらかに異常だし、きのうやたらと果物やヨーグルトが食べたくなったのもふだんにはないこと。すべて身体から出された指示である。もしそれがデジタルで表示されたら「休息セヨ」とか「水分とビタミンを摂取セヨ」というものね。

CHAZENはよく言えばユニーク、自虐的に言えば風変わりなヨガスクールだけど、この展開で私はいったい何をしようとしているのか立ち止まって考えてみた。ひとことで言えばこうだ。

より原始的なトコロに還って身体の感度を上げ、心身を調えること。

たとえば、「風邪を引いたらしい→薬を飲む」という多くの人がなんの抵抗もなく行っていることを見つめなおし、自分が自分専属の医者になって処置をする。場合によっては、病院に行くべきかもしれないが、それを見極める力をつける。そういう身体とマインドを磨くのがCHAZEN学園の理念である。

なぜって、そういう身体があれば自信がつき心も安定する。こわいものも不安も減少する。

アシュタンガヨガのマイソールスタイルすなわち自主練形式というのは、自分で自分の身体と向き合うのに最適だ。坐禅はそれこそ回向返照の退歩を学すべしのとおり、原始の自分に立ち返る作業である。

さらには、みんなでお米作りを経験したのも、リトリートを始めたのも、より原始に還る経験を通じて身体の感度を高めるという目的のため。

たとえば、お山で火を焚いていると、これこそが現代人に必要な実践ではないかと思えてくる。いかに薪に火をつけるか、いかに危険を避けて温かさを得るか。あれこれ工夫したり、試行錯誤を繰り返すことで、なにかしらの身体感覚が発達していくのだと思う。そしてそれが知恵になる。

もはや原始の暮らしに戻ることなどできないけれど、電子機器に頼らない素の身体と感性、安定した心があれば、毎日は生き生きと躍動し、満足感の高いものになると思うのだ。

自分の手を動かして、自分の頭で考えて、暮らしを作ったら。
大地と、空と、水と、火と、風を感じて生きていけたら。

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炎のダンスに魅せられる


今年のテーマは「プリミティブ」ってことで。

その基本となるのが朝のヨガ習慣。これがあると、必然的に生活リズムが自然に近づくので、思考やマインドも調うわけです。夜明けも明るくなりつつある今、朝ヨガ習慣はじめませんか?

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つながることの喜び

昨日「インド思想とヨガ、そして仏教」の座学クラスを終えたら、夕暮れには疲れて眠くなり今朝はアラーム鳴っても起き上がれないほどだった。どうやら「気」を使い果たしたとみえる。

つい2週間ほど前に思いついてから、今私が最も伝えたいことをどういう形で伝えるか、参加者が知りたいと思っていることは何なのか、どうやったら興味をもって聞いてもらえるか、毎日頭の中はそのことでいっぱいだった。

結果的に参加された方たちがそれぞれに楽しみ、頭の中が整理された様子が見て取れたので、その安堵感でどっと疲れが出たのかもしれない。やり切った満足感かもしれない。ふだんの座学クラスにはこれほどのエネルギーを注がないので、たまにはパワー全開で取り組むのもいいものだ。

経験や知識に関係なくすべての人に楽しんでもらえる内容を考えたら、ちゃんとヨガの未経験者から座学クラスを数年受けている方まで幅広い層の方が参加してくださったのもありがたかった。7年目の今、座学にアンテナが立っている人たちが集まってくれたのも、今後どうやってヨガ哲学や禅のクラスを進めていくかの参考になり、私にとってもたいへん有意義な時間であった。

「インド思想とヨガ」については今まで何度も話してきたが、そこに仏教を入れたのは初めての試み。参考文献を読み漁る中で、自分自身の疑問に対する答えがいくつも見つかったので、もしかしたら私がいちばん収穫を得た人だったかもしれない。

たとえば、数多くの仏教スタイルがある中で、空海真言宗チベット仏教にも心惹かれるものはあるけれど道元禅にハマった理由が、ヨーガ・スートラにつながるものだと判明したこととか。なぜクンダリニーヨーガではなく、アシュターンガヨーガにきたのかとか。なーるほどがたくさんあった。

それから、大乗仏教についてもクリアになったことが多い。
道元禅師は自ら伝える仏教について「大乗でも小乗でもない」と言われていたという話を聞いて以来ずっと、それはいったいどういうことなのだろうと疑問というか好奇心が頭の片隅から離れずにいた。どう考えても大乗でしょ?と思っていたのだけど、お釈迦さまの元の教え(原始仏教)を重視する姿勢が大乗とは一線を画すところなのかなと、道元禅師の気持ちがちょっとわかるような気がしたり。きっとそういうカテゴライズ自体を違うと思われていたのだろう。

あくまでそう感じただけで本当のところはわからないけれど、正法眼蔵を読むための基礎知識として法華経を読んでいたこともあって、なんとなく「大乗でも小乗でもない」のニュアンスがわかったような気がしたのだった。

こうしてナニカ不明だったものの正体が見えてきたり、ナニカとつながってきたときにおもしろさを感じるのではないかな。それはかかえていたモヤモヤがパッと消えて視界が開けるような感覚だと思う。

「わかった!」

というときのソレ。
きのうはそれを電球が灯るイメージで「ピッカーン!」と表現したけど、まさにつながったときに電気が流れて光るという感じ。昨日参加した人が、星覚さんの本を読んでいたら「ピッカーン!」があったと言っていた。

ソレは新しい知識を仕入れたときに来ることもあれば、あるとき突然やってくることもある。

私はよく朝練中にソレが降りてきて、感動しながら練習していたものである。このメカニズムはよくわからないのだけど、おそらく練習しているときは頭が空になるので、その空になったスペースに閃きや啓示、答えが降りてくるのではないかと推測している。ちょうど「ない!ない!」と探し物をしているときは見つからないのに、ふとしたときに出てくるようなものだ。

インド思想を学ぶ意味のひとつは、その「わかった!」を導くヒントが得られることだと思う。
私たちが行っているプラクティスの先にあるものとプラクティスそのものがつながるとモチベーションも上がるように思う。

yogaはつながることだという話も出たけれど、人と人、心と心、いろいろがつながると発揮するパワーは急上昇する。まさにクンダリニーのように。

さて、今度の日曜日は新装版のヨーガ・スートラクラス。どんなクラスになるのか楽しみだ。

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スノードロップ

12月にお山に行ったとき、葉っぱもみんな落ちた枯野の中で、春が来たかのように蕾をつけている花を見つけた。不用意に踏んだりしないよう、まわりを囲っておいた。

今月行ったら、真冬だというのに可憐な花を咲かせていた。調べてみたらスノードロップという植物らしい。

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かなり私好みの花


よく見ると、ほかの木々もみなこの雪の中、芽吹く準備をしている。何度見ても感動するいのちの神秘。

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下の囲みがスノードロップ花壇、中央よりやや下にある木がカリン


少しずつ庭にある植物の正体が判明している。前の所有者はたくさん木を植え、植物を育てていたみたいだけれど、ジャングル化しててどこに何が植えてあったかもわからない。この子たちは誰に世話されるでもなく、誰に見てもらうでもなく、毎年花を咲かせていたのだろう。そのケナゲさと生命力にグッとくる。

そういえば、昨年4月の頭にこの物件を内覧したとき、落ち葉の中からクロッカスが咲いていた。すでに心は決まっていたけれど、この子に後押しされて、そのまま申し込んだのだった。

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朝やかな色が際立つ


冬来たりなば、春遠からじ。
いいときも、よくないときも、同じように受け入れて、ただ歩いて行きましょ。

コトバという便利で不便なもの

CHAZENのヨガ哲学や禅のクラスは単なるヨガ人の教養や知識として行っているのではなく、プラクティスを通して私たちが向かうべき方向を間違えないよう、古代から伝わる教えをコトバを介して伝えようとする試みである。

もちろん、その理には知りたいという好奇心を満たす魅力にあふれているので、知識そのものを味わうのも楽しみのひとつではあるが、サンスクリットや漢字の用語を覚えること自体にそれほど大きな意味はない。

受験勉強に一生懸命取り組んできたまじめな人は、穴埋め問題のような固有名詞を知ることが勉強だと思うかもしれないが、そんなものは時としてむしろ邪魔になるだけのもの。禅の世界では不立文字と言って、教学よりは坐禅や作務を重視してきたのだ。

ヨガもまた実践であってコトバはさほど重要ではない。
しかし、人類にコトバが発達したのも、それが伝達の方法として優れているからであり、時にはコトバを使ったほうがより正確に伝わる。時と場合、あるいは人によって伝達手段は使い分けることができる。

私がコトバを使ってヨガを伝えようとするのは、アーサナをやってきた先にもアーサナしかないのではヨガの本丸にはたどり着けないと感じるからである。

本来、アーサナを練習しているうちにカラダでわかってくるはずの大切なことも、何十年にわたって染み付いたシャバの思考回路が邪魔をして、別のことに置き換えられてしまうのだと思う。あるいはもし直感でそれに気づけるならヨガは不要かもしれない。

それで、コトバを使って古代インドの人たちが何をどう考えたのかについて知ってもらおうと取り組んできたのだけれど、そのコトバがまた多くの人を混乱させる原因ともなる。

先日、茶禅会で「原始仏典」と言ったら「原典」をイメージされたようで話が噛み合わないことがあった。文字にしたらわかりやすいことも、耳で聞くととらえにくいのだろう。質問してくれたので判明したからよかったが、きっと表に出ない誤解も多いと思われる。

私の中では日常的であっても、聞いている人にイメージできないコトバがたくさんある。特に座学クラスの一年生はそれらのコトバによって、まるで異国で知らない言語が話されているような感覚に陥っているらしいこともわかった。

そういったこともあって、ここ最近あーでもないこーでもないと考えた結果、今度の日曜日にある「インド思想とヨガ、そして仏教」の講座は、一方的なレクチャー形式をやめて、参加型のワークショップ形式で行うことにした。

座って学ぶのは苦手な人も、講義を聞いていると眠くなってしまう人も、楽しみながら「なるほど〜」と納得するようなものにすべく、ただいま準備中です。初めての方も、以前受講して挫折した方も、ぜひチャレンジしてみてください。

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ということについてコトバを駆使しても、これまた伝わりにくいのだろう。
コトバを使わなくても、あるいはほんの少しのコトバでも伝わる人には電光石火で伝わるが、伝わる人だけに伝わればいいとは思っていないので、この私にできるだけの努力をしてみたい。

ということだけでも伝えたいので、このような拙文をしたためております。
とまわりくどいことを書くからまたわかりにくくなる......。


そこへいくと、リトリートではコトバは「余計なもの」に成り下がる。

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自然という偉大な師がすべてを語るから

歌って踊って新年会

マイソールクラスのあとで新年会。
ただ飲んだり食べたりするのもなんだかなので、踊りを披露してもらうように段取ったら成り行きで全員フル出演の「一人一芸」ということになった。

これは初の試みだ。

いや、その前にマダムママ手作りのごちそうよ。

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ちなみにプロではありません


まずはひたすら、このごちそうをいただく。

ニンジンやダイコンが花びら型に抜かれていたり、細部に至るまで手を抜いてない。何から何まで手の込んだ「作品」。ヨボヨボでもおかしくない御年であられるのに、すべてひとりでささーっと作ってしまうらしい。

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ものすごいパワーを感じる


お腹いっぱいになったところで、演芸会スタート。

本日の目玉は、バブリーシスターズ(たぶん当時ホンモノ)によるバブリーダンス!

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決まってるよー


大袈裟な肩パッドがアメフト選手のようで超ウケた。


踊りは続く。
沖縄民謡を歌う人と即興のおとぼけバックダンサーズ(笑)

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きれいな歌声と脱力系ダンス


その他、ちゃみさんのモノマネとか。マル秘アーサナ攻略法とか。なかなかヤルな。
シュー部長も芸を披露したぞ。


そしてトリは、ちびっ子とママたちの「パプリカ」ダンス。
私をはじめ、テレビ見てない人たちは流行ってるのも知らなかったけど。

んもー超絶かわいかった。

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大熱演してくれたよ


メンバーでもないのに乱入していく部長。

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まだ好奇心もいくらかは残っているらしい


新しい試み、楽しかったー。慣れてないので進行に改善の余地があるけど、またいつかやりたいね。きっと参加者の芸もパワーアップしてるはず。

そしてこういうの見て、今年はいろんな部活の機会を作ってみようと思ったのでした。

作務という愉しみ

今回のミッションはただひとつ、薪棚マターだ。

薪を並べて乾燥させるための、屋根があって通気のよい棚を用意する必要がある。薪棚くらいちょっと器用な人ならDIYでちゃちゃっと作れてしまうのだろうけど、今の私にはハードルが高杉晋作。昭和時代の女子はカナヅチやノコギリの使い方を知る「技術科」を習っていない。で、グーグル先生に聞いてみたり、ご近所さんの薪棚を観察して研究した結果、安上がりの簡易式から始めることにした。

まずは今積んである木を移動させる。

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きれいに積んでいただいたのだけれど


下にある結構な太さのクリの木は、移動させるのもたいへんなので、ついでに割ってしまおうか。しかし、こんなぶっといの、果たして割れるのだろうかと思って試してみたら、意外とかんたんに割れた。


ほんならこれはどうだ?

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でででーん


2回ほど斧を振り下ろしてみたがびくともしない。
この凸凹は切り倒すときに入れた切り口の跡、つまりいちばん根元に近いところだろう。割るよりも、逆さにして柔らかい土の上に安定させ、薪割り台として使うことにした。

だんだんわかってきたのは、割りにくさは太さよりも節や筋形状、硬さらしい。上の写真の右奥にある半分に割れたものは色白で筋がまっすぐ。すなおな女子のようにたやすく割れたのだけれど、一筋縄ではいかないのも。

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へそ曲がりの頑固オヤジ系


最初に狙った刃の跡がいくつかついている。そうやって試してみるうちに、これは中心を避けて狙いを定めれば割りやすいということがわかってくる。そこにおもしろさが生まれる。薪割りまでするつもりはなかったけど、ついつい割ってしまう。

調子に乗ってやりすぎないように、暗杉くんのテーブルでお茶しましょ。

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チップとデールティータイムみたい♡


ブロックの上にウッドデッキの一部だった板を渡して、とりあえずの仮置き場を作り、割った薪の上だけ波型板を屋根にして縛っておいた。

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いかにもテキトーなやっつけ仕事


こうしてカラダを動かしていると、人間再生のためには作務だなあと実感する。スイッチひとつでなんでもできる生活は労働の愉しみを奪い、人間を衰退させていくだけのように思えてくる。

先端医療で病気を治し、ただ長生きすればいい時代が終わっていることは、多くの人が感じていると思う。ピンピンコロリとか言うように、できるだけ健康なココロとカラダで生涯をまっとうするためには毎日をどう生きるべきか。

春が待ち遠しい。