CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

コトバという便利で不便なもの

CHAZENのヨガ哲学や禅のクラスは単なるヨガ人の教養や知識として行っているのではなく、プラクティスを通して私たちが向かうべき方向を間違えないよう、古代から伝わる教えをコトバを介して伝えようとする試みである。

もちろん、その理には知りたいという好奇心を満たす魅力にあふれているので、知識そのものを味わうのも楽しみのひとつではあるが、サンスクリットや漢字の用語を覚えること自体にそれほど大きな意味はない。

受験勉強に一生懸命取り組んできたまじめな人は、穴埋め問題のような固有名詞を知ることが勉強だと思うかもしれないが、そんなものは時としてむしろ邪魔になるだけのもの。禅の世界では不立文字と言って、教学よりは坐禅や作務を重視してきたのだ。

ヨガもまた実践であってコトバはさほど重要ではない。
しかし、人類にコトバが発達したのも、それが伝達の方法として優れているからであり、時にはコトバを使ったほうがより正確に伝わる。時と場合、あるいは人によって伝達手段は使い分けることができる。

私がコトバを使ってヨガを伝えようとするのは、アーサナをやってきた先にもアーサナしかないのではヨガの本丸にはたどり着けないと感じるからである。

本来、アーサナを練習しているうちにカラダでわかってくるはずの大切なことも、何十年にわたって染み付いたシャバの思考回路が邪魔をして、別のことに置き換えられてしまうのだと思う。あるいはもし直感でそれに気づけるならヨガは不要かもしれない。

それで、コトバを使って古代インドの人たちが何をどう考えたのかについて知ってもらおうと取り組んできたのだけれど、そのコトバがまた多くの人を混乱させる原因ともなる。

先日、茶禅会で「原始仏典」と言ったら「原典」をイメージされたようで話が噛み合わないことがあった。文字にしたらわかりやすいことも、耳で聞くととらえにくいのだろう。質問してくれたので判明したからよかったが、きっと表に出ない誤解も多いと思われる。

私の中では日常的であっても、聞いている人にイメージできないコトバがたくさんある。特に座学クラスの一年生はそれらのコトバによって、まるで異国で知らない言語が話されているような感覚に陥っているらしいこともわかった。

そういったこともあって、ここ最近あーでもないこーでもないと考えた結果、今度の日曜日にある「インド思想とヨガ、そして仏教」の講座は、一方的なレクチャー形式をやめて、参加型のワークショップ形式で行うことにした。

座って学ぶのは苦手な人も、講義を聞いていると眠くなってしまう人も、楽しみながら「なるほど〜」と納得するようなものにすべく、ただいま準備中です。初めての方も、以前受講して挫折した方も、ぜひチャレンジしてみてください。

www.chazenyoga.com


ということについてコトバを駆使しても、これまた伝わりにくいのだろう。
コトバを使わなくても、あるいはほんの少しのコトバでも伝わる人には電光石火で伝わるが、伝わる人だけに伝わればいいとは思っていないので、この私にできるだけの努力をしてみたい。

ということだけでも伝えたいので、このような拙文をしたためております。
とまわりくどいことを書くからまたわかりにくくなる......。


そこへいくと、リトリートではコトバは「余計なもの」に成り下がる。

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自然という偉大な師がすべてを語るから