CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

偉大なるグル

朝3時半ごろ外に出たら、うっすらと雲がかかった空にぼんやりと明るい光。きのうは満月だったけどまったく月が見えなかった。そのうち少しずつ雲が切れて、ところどころの雲間から星が見えた。シューさんの脚を拭いていると、木々の間にまんまるお月さま。ほんの3分ほど前には見えなかった美しい月が、それだけでこの世はすばらしいと思わせるような輝きを放っている。

もし今絶望の淵にいたとしても、この月を見たら生きる力が湧いてくるだろう。ふと、そんなことを思った。

地球上の人々がコロナだなんだと騒いでいることなどおかまいなしに、宇宙はその営みを続けている。生まれる星もあれば滅びていく星もある。物質世界は延々とそれを繰り返している。私たちはその中でほんの一瞬のいのちを与えられた小さな生物だ。

大地は俺たちのものじゃない。俺たちが大地のものなんだ

ちょっと前に見たドキュメンタリー映画で聞いた言葉にひどく納得した。
悩んだとき、何かがうまくいかないとき、自分中心にものごとを見ている。そこには<私>という視点しかなくなっている。<私>が何かを所有していると思っている。

自然の美しさにはそんな小さな<私>を黙らせる力がある。そのあとの坐禅は久しぶりに爽快な一炷であった。

東の空がオレンジ色になるころ、シューがめずらしく早めに起きてきたのでサンデーパークを目指す。

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雲は多いのに山はくっきり


麓から靄が上がってきている。

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上の雲がまた独特な表情をしている


木々の向こうから太陽の光。

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このアングルは初めて


わずか5分の間に山は薄いベールに包まれていた。

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天然のぼかし


グルはいつもすぐそばにいて、静かに、何の言語も使わずに導いてくださる。

琴浦町の梨 2020

火曜日の朝5時ごろ、郵便受けに不在票を見つけた。前日の日中はずっとCHAZENにいたのになぜ? マイソール終了後にお山に行くので、土曜日まで受け取れないじゃないよ。果物だから早く受け取りたいけど、配送会社は過去に何度も嫌な思いをしたことのあるあの会社......どうやって受け取ったらいいんだ?と心が乱れる。

マイソールが終わり、受け取る方法のオプションをいろいろ考えてから電話してみたら、意外にもお詫びモードで、最短で何時に届けられるかドライバーに確認して折り返します、と。融通効かない会社だと思ってたのに拍子抜け。しかも、5分くらいしたら電話より先に荷物がやってきてあっけなく一件落着。

ということで、今年も鳥取県琴浦町から梨が届きました。なっちゃん、ありがとう。なっちゃんに会いたいな。子育てで忙しくなって、このブログは読んでないかもしれないけれど、いつものようにここで着荷報告をしておいて、あとでゆっくりお手紙書くね。

chazen.hatenablog.com


コロナ騒動ですっかり忘れていたけれど、今年もまたおいしい梨がいただけるとは......。何よりこの「chami先生 シューさんへ」って書いてあるお手紙にほっこりさせられるんだよねー。

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梨の匂いにも気づかず寝るシューさん


バタバタと支度をしていた気持ちがゆるんだ。何もそうあわてることはないと、途中でアイスコーヒーを買ってレンタカー屋さんへ。

ひと月の間、キーを差し込まないとドアが開けられないような古いステップワゴンに乗っていたので、普通に新しいコンパクトカー(いつも乗っている)の取り扱いにギクシャクする。大きい車を運転する感覚がまだカラダに残っていてやけに軽く感じられ、アクションが若干大きすぎ。

右折信号が出ていたのが黄色になったので急げー!と右に曲がったら、ステアリングが軽すぎて、遠心力で座席から紙袋が落ちてアイスコーヒーがバシャっ。

えーん、一滴も飲んでないのに一滴も残ってない......。
なにやってるんでしょうねえ。朝からアタマもカラダも落ち着きがないったら。

こないだのスートラクラスで
「いったん息を吐ききってサマスティティに戻ってから、次のことを始める」
って、えらそうに語ってたのはどこのどなたでしょうか?

ひとつ信号を待って、その間にコーヒーを飲めばサマスティティになったのに......。てか、そもそも、コーヒーをドリンクホルダーにセットしてから走り出せよ。

ヨガで改善されたことは多いけれど、こういう性格は変わらないようで......。琴浦町なっちゃんのように、ほんわかした人柄でまわりをほっこり和ませてみたい。

それでも無事お山に着いてシューさんと梨をシャリシャリといただきながら、今年も一緒に琴浦町の梨がいただける幸せを味わったのだった。

17才の梨王子。

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依然として寝たまま......


そういえば、ワタシでも和やかモードになるときがあるのでした。リラックス系のヨガクラス。このときだけはゆるゆる〜です。自動で人柄スイッチが入れ替わります。6日の陰ヨガもそんなゆるゆるモードです。あと1名分空きがありますのでどうぞ。

ちなみにバックベンドワークショップはウェブページをつくるまえに満員御礼となりました。ありがとうございます。

そろそろ呼ばれてるかも

昨日のスートラクラスに新人が仲間入りした。
おやつの「手作りおやき」におびき寄せられたともっぱらのウワサだけれど、これ以上避け続けられないと観念したのか、満を持しての参加。もっとも、このクラスの半数以上は2年目以降からの参加者なので、まず第1章の復習をして、ヨーガ・スートラが何を目的に編集されたか、そしてこのクラスで何を学ぼうとしているのかを明確にしておいた。今後も以前やったところに戻りつつ先に進めていく予定だ。

ある意味いちばん重要なことだと思っているのだが、座学は知識を得ることそのものよりも、修練(含アシュタンガの朝練)の目的を見失わないようにするための灯台のようなもの。ポーズの練習をしていると、つい上達だけを目標にしがちで、本来はなんのために練習しているのかわからなくなってしまうから。

スートラの詩句は毎回違っており、その度に新しいことを学んでいるように見えるけれども、実は言っていることは毎回同じ。テーマも結論もひとつしかないから。ある意味では一回のクラスの中にすべてが含まれているといえる。私の言うことはいつものアレ、耳タコのアレ、もうウザいくらいなアレですよ。なのに、よく飽きもせずに続けているものだと感心していたら、結局のところ練習を熱心に続けている人ほど座学も熱心に続けているという単純な答えが得られた。

座学を道標にしながら日々の練習に励んでいる人は間違いがない。両方が相乗して、この修練が正しい方向へ進んでいる。つまるところ、どっちも楽しいからだと思う。

そして、年を経るごとに新人の理解が早く的確になっていく。
これはCHAZEN生がどんどん淘汰されて、理解できる人しかいなくなっているような背景もあるけれども、今年に入ってからスタートした人たちのコメントがめっぽう鋭くておもしろいのだ。

毎回思うのだけど、このクラスは私自身の楽しみだったりする。もしかしたら私の趣味でやっているだけような気もする。しかし、そう考えるとCHAZENでやっていることはすべて私の趣味であり、楽しみであり、生きがいだ。申し訳ないくらいに私自身がすべてを楽しんでいる。

それはとりもなおさず、ヨガの楽しさがわかった人をみる楽しさであり、インド思想のおもしろさに目覚めた人をみる楽しさであり、霊的成長を遂げていく人をみる楽しさである。

やめられないとまらない。

ヨーガ・スートラクラスは来年以降もまだまだ続きます(CHAZENが存続していれば)。そろそろ呼ばれている気がしたらお早めにどうぞ。

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プルシャとプラクルティの話とか、なんでそんなにすっと理解するのかがむしろナゾ。

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ひさびさのプルシャくん登場

3年ぶりにバックベンドWSやります

東京の感染者が増えて一時は座学も延期を考えましたが、今は逆にできるだけ通常モードに戻すことを考えています。そこで9月の休日は、6日陰ヨガ、13日ギーター、20日フルプライマリーレッド、21日バックベンドWS、22日茶禅会、27日スートラとフルに企画を入れてみました。

このうちバックベンドのワークショップは、まだウェブページがありません。バグが発生しているようで更新ができないため、先にこちらでのご案内となります。

以前は毎年のように開講していたバックベンドのワークショップですが、最後にやったのは3年前、まだ私の肩がほとんど動かないときでした。で、せっかくの二度とない機会だからと、ウールドヴァ・ダヌラーサナには肩の可動域が大事だということを見せるために、上がれない人のデモンストレーションを素でやってみせたのです。本人はウケねらいで嬉々としてやったのですが、あまりのイタい図に参加者の顔が凍っていたことだけをよく覚えています。

そもそもワークショップはなくてもいいのですが、バックベンドに関しては伝えておきたいことが山ほどある私なので、3年に一度くらいはやってもいいかなと......。やってもいいですか? あ、いいんですね? ありがとうございます、やらせていただきます。(誰に許可とってるんだよ)

伝えたいこととは......

  1. 健全なバックベンドのための8つのキーポイント
  2. 後屈に有益なエクササイズ(ひみつのとっくん)の紹介と実践
  3. ケーススタディ(弱点と強化ポイント)


このような方におすすめ

  • 後屈全体が苦手
  • 下から上がるウールドヴァ・ダヌラーサナで上がれない、腕が伸びない
  • ドロップバック、カムアップができない
  • インターミディエイトのラグヴァジュラーサナやカポーターサナに苦しんでいる
  • 後屈のポーズで腰や背中を痛めた
  • この機会に後屈のメカニズムやポイントをきちんと学びたい

max6名(理想は4名くらい)の少人数で行います。
受講料は¥4,000(マンスリーメンバー¥3,000)です。

メール(または直接でも)にてご予約を承ります。

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後屈ポーズでおやすみ中の部長

あだやおろそかにすまじ

今度の日曜日はヨーガ・スートラのクラス。
仕込みは先月のうちにしてあるので、何を話そうと思っていたのかノートを見ていたのだけど、うわ、先月のことをすっかり忘れている......。分校にいる1カ月の間まったく勉強していなかっただけで、こんなにも忘れてしまうものなんだと驚愕した。

4月5月は修行モード全開だったのだけど、今回はゲストを迎えることに集中するため、勉強道具も持ち込まなかった。本も読まない毎日だったから、脳みそがスッカラカンになってしまったのね。ひと月練習しなかったらカラダが鈍るのと同様、頭も使ってないとどんどん鈍ってしまう。

それに今回はWi-Fiが普通に使えたので、インターネットを見すぎた。情報に惑わされ考えすぎて自滅したのはそのせいだと思う。いつでもどこでも、常に修行を優先した生活を心がけることがいかに大切か、失敗から学んだ気がする。

とはいえ、修行モード全開だったときはできなかったことができた。
7月の雨続きに古いアルバムの整理を完了した。昭和のアルバムってものすごく大きくて厚いので、それを軽量のファイルに移し替えるという作業。デジタル化も考えたけれど、要らない写真を捨ててスリム化するのが先。おのずと過去のいろいろな出来事を思い出したりして楽しい反面、いらないことまで記憶の引き出しから引っ張り出されてきて疲れた。

破壊力の凄まじい写真を見つけた。

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なんじゃこりゃ〜

ちなみに

  • 何の加工もしてないです。ほんまもんのセピア色。
  • 戦後の焼け野原のように見えますが、昭和40年ごろと思われます。
  • 背後は海? 熱海? 記憶も両親もないので不明です。
  • この子はいつも男の子と間違われてたみたいですが、女の子です。


このくらいの年齢かな。

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17年前の8月、岡山から飛行機で東京に着いた日


今週リハビリに励んでスートラクラスに臨みます。ご予約お待ちしております。

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バクティとは<私>を棄てること

ダイジェスト版バガヴァッド・ギータークラスの第3回は、バクティヨーガがテーマ。

私はヨガに出会って真の意味で謙虚になることを学んだ。
なんでも自分の力でなにかを成し遂げようとしていたかつての自分に足りないものは、大いなるものにひれ伏してすべてを委ねるという態度であった。思い上がっていることにすら気づかず、自分の力で自分の運を切り拓こうとしていた。そうしてムダにがんばりすぎては疲れていた。

とはいえ、ご多分に漏れず私も最初のうちはヨガの何たるかを知らず、欧米から輸入された「おしゃれで、洗練された」ヨガもどきをやって、なんとなく自分が浄化されたような気分になっていた。そんな私がその後、インドで初めてバクティ(神への信愛、献身、帰依)というものを知った。

インドになんか行くつもりはなかった。教わりたい先生がいて、できたらバイロンベイか、あるいはバリのトレーニングに参加したいと思っていたのに、タイミング的に合うのがインドしかなかったのだった。それこそが導きだったと思う。仕方なくインドに行ったことで私の進む方向が大きく変わったのだから。

インドのゴアにある小さな漁村でひと月過ごすうちに「おしゃれで、洗練された」ヨガは自分にはいらない、もっと原始的でシンプルなアシュタンガヨガだけでいいと確信したのだった。そのとき学んだバクティの理解はまだ浅かったけれど、ゴアの大自然が大いなる存在を示してくれたので、直感的にその決意が得られた。

それからさらに年月を経て、バクティとは<私>を棄てることだと気づいた。どれだけヤマ・ニヤマを実践しようと努力しても、アーサナを練習しようとも、この<私>というものに邪魔をされては修行の成就はない。<私>から離れるための方法はいくつもあるけれど、誰にでもできる可能性を秘めているのが「バクティ」である。神に帰依してすべてを明け渡し、すべてを神におまかせする。これができれば<私>が消え、教理が理解できなくても、つらい修行をしなくても救われる。

ところが、単純すぎるほど単純なことなのに実行するのは難しい。誰にでもできる可能性を秘めていながら、完全な明け渡しができる人はそうそういない。見るからにエゴのかたまりのような人だけでなく、謙虚に振る舞っている人でも無意識に<私>に執着して、それゆえにその<私>に苦しめられているものなのだと思う。

インドの哲人たちが画期的だと思うのは、「<私>なんてない」とか、「ほんとうの自分はそれとは別にある」などと考えたことである。流派ごとに形は違えども<私>から離れることを説いている。

健康体操だと思ってヨガを練習している人にとっては、「まったく意味わからん。この人なに言ってんの?」としか思えない話なのだけれど、ヨガが単なる健康体操で終わるか、人生を変えるような目から鱗の教えになるかは、この<私>問題にかかっていると言ってもいい。

<私>を向上させるために練習しても、自尊心がくすぐられたり、健康にはなるかもしれないが、エゴはどんどん増長されるだけなので苦しみの解放からは遠ざかる。

ギーターの第9章には、行うこと、食べるもの、苦行することのすべてを神に捧げなさいという一節がある。つまり、自分のために行うのではなく、自分のために食べるのではなく、自分のために修行するのではないということ。それがバクティであり、<私>から離れるということであり、「ただひたすら」行うことであり、BeTuberになることである。もっと具体的には「毎朝やるのが......」ああもうウザいですね。

......と、わけのわからない話をここまで読み進められたあなたには、インド思想を学ぶ素質があります。初めて聞いたら目を白黒させちゃうような話ですが、CHAZENの座学でもっと目を白黒させてみてください。

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このダイジェスト版ギータークラスは年内にあと2回開講されます。

*重要なお知らせ*
何回かオンラインとのハイブリッドを試してきた座学ですが、当面オンラインでの受講を見合わせることにしました。オンラインクラス自体は今後も開講するかもしれませんが、そのときはオンラインのみとします。ヨーガ・スートラのクラスのオンライン受講を検討されていた方、誠に申し訳ありません。リクエストをいただければ、別途開講を検討しますのでご連絡ください。


バッダコーナーサナの座り方で一心不乱に調べ物をしていたら、なんか脚がしびれてきた。

知らないうちに片脚を乗っ取られてたよ。

ジャストフィット

課題があるから楽しいアシュタンガヨガ

「東京都 新型コロナ新たに256人の感染を確認。3日連続で200人超え」
これはきょうのNHKのニュースサイトのヘッドライン。毎日こんな調子なのでだんだん腹立たしくなってきた。「新たに256人の感染を確認」で十分だろ。「3日連続で200人超え」は余計なんだよ。そういう見出しをつけるから、情報を分析して判断することがない人たちがやたら怖がって、社会全体がおかしなことになっていくんだからさっ。ぷりぷり。

かく言う自分もその情報に踊らされているひとりなのだけど、だからこそ原辰徳(古すぎる)。それもこれも暑さのせいだ。まだ東京の暑さに慣れておらず、感染よりも熱中症的な体調不良が怖いので外に出ないでいる。暑さで具合悪くなるトラウマが年々積み重なっている。

自分の暑さのトラウマは増長させるくせに、本校のベランダにある植物の熱さ対策のことはすっかり忘れており、お山に行っている間にいくつかが熱でやられてしまった。せっかく自主練部隊の隊員たちが暑いところを水やりしてくれてたのに、配慮が足りずかわいそうなことをしてしまった。でも、毎年暑さや寒さや改修工事のときの困難を経ても元気な子もいるし、枯れたように見えても復活する子もいる。

二十数年前に買ったおまけ的な小さいベンジャミンが、枯れるでもなく大きくなるでもなくずっと室内においてあったのだけど、捨てるつもりで外に出しておいたら、なぜかこの猛暑の中でめっちゃ元気になって葉っぱがすごく大きくなっていてびっくりした。何がどう作用して突然成長するかわからないものだなと思う。

たぶん人も同じ。環境の変化とか、心境の変化で人はある日突然大きく変わる。だから、自分で自分の限界をつくるのはナンセンスだ。二十数年たって突然成長する木もあるのだから、なにかのきっかけで人生半ばにして拓けていくことだってあるのだ。

分校の庭は全体が植木鉢だから、基本ほったらかしでいいのがラク。炎天下だからって特別水をやらなくても枯れない。

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レモンなんちゃらとかいう、かわいいひまわり


ご近所さんから分けていただいたものをただ植えていたら、花壇づくりがちょっと楽しくなってきた。

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エキナセアは風邪に効くハーブとして有名


ひと月の滞在中、前半は雨で、後半は暑さであまり外の作業はできなかったけれど、新しいプロジェクトも始まった。名づけて「分校お濠端プロジェクト」。昨年は写真を撮る気にもならないほど見苦しかった場所だけど、大雨で流れ込んできた泥を取り除いたらきれいになりそうな気配を感じた。雨水が流れ込まないようにお濠を掘って、丸太の堤防を置いた。普通の大雨ならこれでいける。昨年の台風19号級のがきたらあきらめるしかないけど、普通の台風だとどうかな。

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お濠のラインわかります?


左に見える3本の丸太はさすがに私ひとりでは動かせないので、分校に来たゲストに手伝ってもらったのだけど、ロープを使ったりしていろいろ工夫しながら運んだら「ダッシュ村みたい〜」だって。そうだ、ダッシュ村。みんなで知恵を絞って、力を合わせて問題を解決する楽しさだよね。

たぶん私が夢中になって分校を片づけられたのは、こういった問題解決の楽しさであったり、不具合をなおしていかに快適な空間をつくるかという課題に取り組んでいたからだと思う。

はい、ここポイントね。
私がアシュタンガに飽きることなく続けられた理由のひとつは、やっぱり難しいポーズにいかに取り組むかという課題があったから。もし、最初からなんでもできてしまっていたら、私のアシュタンガライフは色あせてしまっただろう。あるいは上手すぎて違う方向へ進んでしまったかもしれない。

アシュタンガの練習を一定期間ちゃんと続けてきたのにある日バッタリやめてしまう人は、特定のポーズに自分の限界を感じてつまらなくなる、あるいはこのまま練習続けても意味ないという結論に至るのではないかと推測している。でも、そこからがほんとうのおもしろさの始まりなんだよなあ。できない自分と向き合っているといろんなことが見えてくる。そのプロセスこそが練習の賜物なのだということがわかるまで続けられたら、真の意味でこの練習の成果を実感できると思うのだ。

ナゾのベンジャミンのように、ある日突然ニョキニョキと成長して、あれよあれよといろんなポーズができるってのもよくある話。それが目標ではないけれど、可能性はどこに秘められているのかわからないもの。

これはある意味瞑想的なヨガの練習とは関係ないけれど、実生活的な自信というのはできないことに取り組む姿勢から得られるような気がする。よく「私は根性ないですから」って言う人がいるけど、根性ではなくて、むしろ困難をどう楽しむかという遊びなんだと思う。面倒な仕事は、イヤイヤやると苦痛でしかないけれど、そこに何かおもしろさを見つけて取り組むと、それは突然楽しい仕事になる。

どうです?
アシュタンガヨガで困難を乗り越える遊びに取り組んでみたくないですか?

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シューチャルディスタンス