印哲喫茶がただのギータークラスではない件について
昨日の印哲喫茶は前回よりも静かにゆるやかになるのかと思いきや、蓋を開けてみれば、ギーターにとどまらない世界観、死生観にまで展開して、とても意義深いクラスになったのでした。
もはや、私が多くをしゃべらなくても質問が出てきて内容が膨れ、発展していく感触が得られます。反応が少ないとどうしても自分がしゃべり倒してしまうところを、次々にレスポンスが返ってくるので、ただそれに答えていればよいという私にとっては理想的なかたちになりました。
本来のテーマは「行為のヨーガ」だったのですが、実際のテーマはギーターと付かず離れずの、ウクライナに侵攻したロシアによる戦争についてという方向に移っていきました。なかなか答えの出ない問題ですが、これをインド思想的に考えたらどういう答えが導き出されるか。善悪で考えたり、敵味方に分けたくなるのが私たちの思考のくせではありますが、インド思想的に考えるとさてどうなるか。
有史以来、戦争や殺戮がなくならないのはなぜなのでしょう。
私は漢方の影響で、それを陰陽で考えるようになりました。
インド思想的にはグナのバランスかもしれません。世界(宇宙)にほんとうの平和がもたらされ、生きとし生けるものが一体になって、あらゆるバランスがととのったとき、現象界は根本原質に帰滅するのだろうなと妄想します。人が悟って解脱するように、現象界自体が成就して解脱したら、もはや存在が必要でなくなるという......。
たいていの人には意味不明な話で恐縮ですが、物理化学的にも、ユガの計算的にも、地球はまだ存在し続けると思うので、戦争や殺戮もたぶんなくならないと私は踏んでいます(そう考えたくはないですが)。私たちも、私たちの末裔も、そういう世の中を生きていかなければならないのです。
だから、お釈迦様のような存在が必要なのです。
必要なのは高度に発達した科学よりも、こころのよりどころだと思うのです。
武器をもって戦うことをせず、インドに逃れたまま、いまだ祖国に帰ることができずにいるダライ・ラマ猊下と、それでもダライ・ラマ猊下をよりどころにして生きているチベットの人々のことを考えます。
その大きな存在であるダライ・ラマ猊下といえども仮のよりどころであり、こころのよりどころは各自が自分自身の中に育てなければなりません。
だからプラクティスなのです。だから修練、修行が必要なのです。
この与えられた生をどう生きるのか。
今一生懸命修行しても、明日爆弾が落ちてくるかもしれないし、大地震が来るかもわからない。それでもするのが修行なのだと思います。結果や成果ではなく、今このときにすべきことをなすだけです。こころのなかに小さなブッダを育てていきましょう。
何年も前に買った植物がミモザであったと気づいた朝。
捨てないでよかった。何の木だったか忘れていて、やたら葉だけが生えてくるので邪魔者扱いしていたのでした。
修行の花も、ある日突然開くものらしいです。
ねこバカ いぬバカ わしもバカ
「ねこバカ いぬバカ」という本を読んだ。
ねこバカ→養老孟司、いぬバカ→近藤誠が愛猫愛犬自慢をし、動物の医療や終末期について対談されている本だ。ちょっと古い2015年刊(養老先生のまるはその後虹の橋を渡っている)。タイトルはたぶん「バカの壁」所以と思われる。
近藤誠さんの『患者よ、がんと闘うな』はセンセーショナルな本であった。独自の「がんもどき」理論で抗がん剤や手術を否定してきた近藤さんは、発刊以来勤務先では村八分にされ、医療界から大批判、大パッシングを浴びながら、それでも定年まで職を辞することなく、今に至るまで持論を発表し続けている。大論争を展開してきただけに長いこと眠れない日々があったそうだ。この本ではその論争自体には触れず、そんなとき犬に慰められたという話として出てくる。
20年以上前に『患者よ、がんと闘うな』を読んでかなり影響を受けた私も、今はまた別の見解をもつようになってはいるが、そんな話を読むうち、改めて『患者よ、がんと闘うな』が世に出たことの大きさを思ったのであった。暴走しているところもあるけれど、もしも近藤誠がいなかったら、もっと多くのひとが医者の言いなりに手術したり抗がん剤を飲んで不本意なガンとの戦いを強いられていたように思う。
おもしろいのは、対談しているふたりが両者とも医者でありながら医者にはかかりたくない人たちで、近藤さんは飼い犬も動物病院に連れて行かないらしい。それで代々の犬たちは苦しまずおだやかな死を迎えられたという。ふむふむ納得だ。今や動物医療も行き過ぎている。犬猫をわが子のようにかわいがるのと、やたら切ったり、検査したり、薬を飲ませたりして、ほんのわずかな寿命を延ばすことを一緒に考えている飼い主もいる。
そうやって犬猫も人間と同じように本来の治る力を失っていくのだろう。
10年前にはやはりお医者さんの書いた「大往生したければ医療とかかわるな」という本を読んで、両手を挙げて賛成した。そうやって少しずつ、マイナーではあるけれども医療界のアンチ医療が日の目を見るようになってきた。漢方の勉強をしていると、漢方をバカにしていた医者が今では漢方を頼みの綱にしているという話をあちこちで見かける。
私の医療嫌いは、母親の西洋医療絶対主義と関係が深いと思う。ほぼ毎日のように頭が痛いと言ってはおそろしい量の薬を飲みながら、食生活や生活習慣を改めようとは考えない人だった。晩年の母はコンビニで買ったサンドイッチとかお菓子などをよく食べていた。医者の予想以上に早くガンが進行したのは、そうやってガンにどんどん栄養を与えていたからだと思う。
そういう反面教師のおかげで今の私があると思えば感謝したいくらいだけれど、医療や薬に対する疑問というのは、おそらく頭で考えるのではなく身体感覚だという気がする。だから、そういう感覚がわからない人には、何を言っても無駄なのだ。それこそ「バカの壁」である。
まあ、母自身は満足だったのだからそれでよしとして、バカではない人には単に知らなかったことを知ってもらったり、考えるきっかけを作ってもらいたいので、あれこれおせっかいを焼いているというのが私というバカのやっていることである。ときどき虚しくなって「こんなことやってなんになるのだろうか」と思ったりもするけれど、『患者よ、がんと闘うな』のように、やっていることの是非や正当性の評価よりも、石を投げて波紋を起こすことのほうに意味があるのかもしれない。
ことの是非を決めるのは受信者であり、ヨガをやるもやらないも、食事をどうするか、生活習慣をどうするかもその人自身が決めることなのだから、私はこれまでに自分が見たり聞いたり考えたり実験したりして培ったことを伝えるだけだ。大きな波紋を起こすことはできないけれど、ご縁がなければ知らないで終わっていたかもしれないほんの一握りのひとに何かを感じてもらえるように。
そう思ったら気が楽になって、ますます調子に乗ってスケジュールをびっしり埋めてしまいそう。
それもこれも、理事長のV字回復あってこそ。
それもこれも、こと腫瘍に関しては医療とかかわらないと覚悟を決めて戦いを放棄したゆえか? 漢方ドッグの免疫力ゆえか? いずれにせよ、あの毒々しい腫瘍が消え去って、跡形もなくきれいになり、この先何年でも生きていそうなほど元気になった理事長である。
最近は、朝ごはん食べてからマイソールの間じゅうぐっすり眠りこけていることが多い。ちょっかい出しても起きないので、鼻の近くにおやつを置いてみた。
さすが。食べ物には反応して目を覚ました。
食べ終わったら再びぐっすり。
食べ物以外のことは何も考えない、このバカさ加減こそ免疫力の源、だろうな。
345/410なう
もういつのことだったか覚えてませんが、「禅の旅」の帰りのワゴン車内でのことでした。茶禅会で『正法眼蔵随聞記』を読みたいという声が上がったのは。ひとりではとても読めないからみんなで読みましょうみたいなノリだったと思います。ほんなら読んでみっぺか、ということでお坊さん不在の茶禅会で1話ずつ読む試みが始まりました。
『正法眼蔵随聞記』とは、道元禅師がお話しされたことを弟子の懐奘禅師がまとめたものです。
道元禅師の著書『正法眼蔵』とは違って難解なところはほとんどありません。ひとつだけ、禅の公案の知識がないと理解できない難所がありましたが、ほとんどは口語訳と注があればわかる話です。ところが、ときどき「は?」とか「で?」という感想しか出てこないような、とらえどころのないエピソードに戸惑うことがありまして。端折ってまとめてあるのでエピソードが飛躍しててわからなかったり、800年前の話なのででニュアンスがわからなかったり。
それでも道元禅師のおっしゃられることはだいたい決まっているので、前後の文脈がつながらなくても何がキモなのかわかるようになり、どんなエピソードでも枝葉末節こだわらなくていいことがわかりました。たとえば、長いつきあいのある家族とか友人とかだと、前後がとんでいたりしても何を言いたいかわかるという、そんな感じに近いと思います。
理解するのには愛が必要なのかもしれない。
今ふとそんなことを思いました。
昨日から始まった60分で随聞記だけを読むオンラインの会は、坐禅も茶話会もない分、かなりマニアックな会なのかもしれません。始めてしまったからには最後まで終わらせたいと、このような形になりましたが、ちゃんと参加してくれる方がいるのはほんとうにありがたいことです。
星覚さんの糸島の道場ではいよいよ接心が本格化して、天龍寺と同じ毎月19日〜25日に行われているそうです。しかも、接心中ずっと断食をしているのですって。断食すると眠くないし、いくらでも動けると大絶賛されていた星覚さん。いやいや、かないません。こちらヨガ道場ですのに、おままごとみたいなプチ断食で大騒ぎしていることがお恥ずかしい。
解説を除くと410ページある本ですが、ただいまP345まできました。読み終えるまでまだ10回くらいありますので、ぜひご一緒に。本をお持ちでない方も参加いただけます。オンラインですので、初めての方もぜひお気軽にどうぞ。次回は土曜日の早朝に開講の予定です。日程決まり次第お知らせいたします。
出会って、めぐって、やる気になって
理事長が元気に18歳8ヵ月の月誕生日を迎えられて、干からびる寸前だった私もうるおいを取り戻し、ぼちぼち動き始めている。世の中は暗くなる一方だけど、個人的には明るい光が差し込んだ今週である。
ひとつめは、某嬢がオンラインセミナーの情報を知らせてくれたことから始まった。テーマが ”仏教学と物理学から「世界の基本法則」を探究する”というなんとも興味深いもので、すぐに申し込みをした。
が、物理学? 私が最も苦手とする分野ではありませぬか。 ま、大規模のオンラインだから、ダメなら寝てるとか消えるとかでよいかということで参加してみたら、意外にも仏教学の話よりむしろ物理の話がおもしろかった。
食わず嫌いはいけませんな。
私がふだん回避している方面に、どれだけお宝が隠れているのだろう。きっとそっち系意識の高い人はご存じでしょうが、大栗博司先生の存在を私は知らなかった。たぶん私には想像ができないほど頭脳明晰な天才肌の人に違いないが、物理がわからない人でも要諦が理解できるようなお話だった。その要諦がまたシャープに切れている。真に「頭がいい」というのはこういう人のことである。
世界の基本法則というよりは宇宙の基本法則と言ってもいいようなワクワクするお話を聴くうちに、もしもこういう物理の先生に出会っていたら、物理が嫌いではなかったかもしれないし私の人生も少し違っていたかもしれないと妄想した。
これだけでもずいぶん活性化されたのだけれど、さらにもうひとつ、今度は対面での講座を受けに行き、興味深い鍼灸の話が聴けた。
こちらはマニュアル的な内容を想定していたので期待はしていなかったのだが、まったく型にはまらないレクチャーで、解剖生理学まで踏み込んだ専門寄りの話が聞けてすごく得した気分。
中医学の学校ではただいま鍼灸学を学んでいる。入学したときから鍼灸学を楽しみにしていたのだけれど、ツボの取り方や効能などを教科書どおりに進んでいくだけなので、単調でひどく退屈。はりきって覚えようと思った経穴の名前も習ったそばから忘れていく始末......。
そんなときに生きた鍼灸の話が聴けたので、なおさら楽しかった。先生にも受講生にも、よそよそしいビジネス臭が感じられなくて、CHAZEN的なざっくばらんさが好ましかったのだ。マニュアル的な講義はオンラインで十分だけれど、先生の人柄やクラスの雰囲気などは空間を共有しないと嗅ぎとれない。
やっぱり、ナマで人と接触しないといけませんな。
その場のノリで発生する雑談めいたもののなかにこそ、大事なヒントが詰まっていたりするのだから。
それにしてもお灸はすごい。免疫がかなり高まるらしい。末期ガンの患者さんの腫瘍マーカーが即効でダダ下がりしたり、白血球が増えたりするらしい。ガンそのものが治るというとアヤシイけれど、ガンと闘うための免疫力を高める効果があるというのは納得だ。
大いに啓発された私の気血水はじゃんじゃかめぐり始めた。鍼灸みたいに刺激が入ったことにより、澱んでいたものが流れ出したのだろう。寒いせいもあるけれど、やたらお腹が空いて、行きに握り寿司、帰りに天ぷらうどんとごはんという糖質重ね喰いのご乱行をしたけれど、瞬く間に代謝されてしまった(ような気がする)。めぐっていれば悪いものは溜まらない(はず)。
当然「やる気」もめぐってきたので、アーサナのワークショップと漢方養生ヨガのクラスを追加しましたよ。3月はスペシャルクラスでパッツパツです。お待ちしております。
最近よく歯を見せて寝てる理事長にもがんばってもらわないとね。
頭痛に漢方、腸活もね
本日は漢方喫茶にて、主に頭痛のお話をいたしました。ちょっとわかりにくいタイトルをつけてしまったのですが、何をしたかったかというと、要は「鎮痛消炎剤飲まなくても頭痛治るよ」という話です。つまり、「できるだけそういったお薬に頼らないで過ごせたらいいよね」ということ。
さらには、身体の感度を上げて不調不具合を調整できるようになれば、ヨガから受ける恩恵はさらに大きくなるでしょう。
さまざまな頭痛がありますが、まだはっきりわからないことも多いようです。ただ、特に西洋薬が効かないような頭痛、あるいは医者に行っても「ただの頭痛」と片づけられてしまうような頭痛こそ漢方が効く可能性が高いということは多くの先生が述べておられます。
なかでも、天気痛といって低気圧や雨の降る前に起こる頭痛はかなりポピュラーで、本日の参加者のうち二人が、低気圧の接近を知らせてアラートを出すアプリを活用していました。私はそのアプリの存在すら知りませんでしたが、悩んでいる人がいかに多いかということでしょう。
私自身は低気圧による頭痛はほとんどないのですが、ときどき頭痛はあります。それでうまい具合に何度か漢方薬を試すチャンスがあり、今年のお正月に著効したのが印象的でした。体感的には鎮痛消炎剤より効いてしかも後味スッキリ、胃の不快感もなし。難点は煎じ薬だと激しいお味で飲みにくいのですが、良薬は口に苦しと思えば飲めないことはありません。
これはぜひみなさんに知ってもらいたい。ただ、漢方薬を使いこなすにはちょっとしたコツ(知性ともいえる)が要ります。アレルギーや副作用のことを含め、漢方の考え方や服用の仕方など基本的な注意事項を伝えておけば、調子の悪いときすぐに試してもらえるのではないかと思ったのが今回の漢方喫茶につながりました。
ところで、漢方に関する論文を読んでいて知ったのですが、どうやら漢方薬の効き目は腸内環境にも左右されるようです。腸で善玉菌と結びつくことによって効き目成分に変化するらしい(うろ覚え)。やっぱり腸活!
先日、腸活3点セットをいただきました。
しばらくぶりにご対面した寺田本家の発酵トリオ。
いただいたとき、口では「そんなー、気を遣わなくていいのにぃ〜」と言いながら、もう顔がにやけて、目尻や口角が下がってだらしなくなっているのを感じました。さっそくニュー醍醐のしずくをヤクルト代わりに飲み、さらに一層COVID-19に対抗できる戦力が強化されつつあります。
ありがとうございます。
武相荘へ小さな旅
何かにつけ迷い揺れていた30代のある日、フッとこんな考えが降りてきたのです。
美しいか美しくないかを判断の基準、行動の規範にすればいいのだ、と。
社会的な常識や人の思惑などに縛られず生きていくには、自分の中にルールができていなければならない。そのルールを美学におけばいいのだという考えが降りてきたのでした。人に笑われようとも、四面楚歌になろうとも、自分が美しいと信じる方向に舵を切ればいいのだなと思ったら、勇気が湧いてきたのを覚えています。敷かれたレールの上を走り続けることができない「はみ出し者」には、それが必要だった。
ただし、そのためには美観を確立しなければなりません。ヨガに出会う前の30代は芸術方面にどっぷり浸って、観たり聴いたり、読んだり飲んだり、人と会い、旅をして、今思えばほんとうにいろいろな経験をしたものだと思います。ほんとうにラクになったのはインド思想を知ってからですが、そういう土台の上に今の私が形成されていることは間違いないでしょう。
美意識というのは天性もありますが、実際に経験して磨かないと育たない。それはアシュタンギが意識せずとも呼吸を深くしていたり、バンダを効かせていたりするようなもので、日々のプラクティス以外に育てる方法がないのです。
そんなことを思ったのは、久しぶりに白洲正子の本を読んだからです。青山二郎や小林秀雄に鍛えられてものを見る目を養っていった韋駄天お正の話を読みながら、韋駄天お茶味の恥ずかしいトライ&エラーも決して無駄ではなかったのではないかと、そんな風に思えてきました。
韋駄天というのは足が速いことから、思ったら即走って行ってしまうような正子さんにつけられたあだ名。思ったときには実行している韋駄天お茶味としては、大いに親近感を抱いているのです(走る世界がかなり下界にはなりますが)。
先月の印哲喫茶に遡りますが、そのとき「葬式無用 戒名不要」という白洲次郎の遺言の話をしたら、急に「武相荘」に行きたくなりました。白洲夫妻が移り住んで野良仕事をしながら暮らした家が記念館になっているのは知っていましたが、米を作ったり山で柴刈りすることを覚えた今なら、二人の暮らしぶりが具体的に想像できるような気がしたのです。
先週のとある日、理事長の状態も落ち着いている今がチャンスと行って帰って4時間の小さな旅を決行したのでした。
小田急線の鶴川という駅から歩いて15分ほど、郊外型のチェーン店が立ち並ぶ道の向こうに、そこだけ別世界のような武相荘がありました。
イギリスの貴族は田舎暮らしを楽しみますから、留学時代にインスピレーションが湧いたのでしょうが、田舎に豪邸を建てるとか、疎開で一時的にというのでもなく、好き好んで荒れた農家を買って住むという、今流行りの古民家改修を太平洋戦争の時代にやってらっしゃったという先取りぶりがとんでもなく。
中学生の白洲次郎が親から買い与えられ芦屋を流していたという舶来の車。
田畑専用の愛車も。
ところで、新百合ヶ丘から2駅先の鶴川なので想像はしていたのですが、武相荘の味わいとは真逆の、新興の住宅がずらりと並ぶ風景には唖然としました。コンセプトをそろえた外国風の家々に目が眩みそうです。
おそらく、田畑が多かった土地ゆえに大規模な開発がなされたのでしょう。郊外型チェーン店も含め、正子さんの美観にはそぐわないと思われる光景に、今ご存命だったらどう思ったかなと考えてしまいました。やはり東京から近いところはそうなりますから、私が移り住むのは「限界集落」にしようと思いました。
それにしても、茅葺きの家のつくりはすごいです。柱とか梁とか、木だけど100年でも使える。買い取った当時は荒れていたのを、手を入れて生涯住み続けたそうです。入ってすぐの応接間になっている部屋は、牛がいたところだったとか。しかも、それを「無駄のある家」として、その不自由さを楽しみ、あちこち手を入れて生きた家にするセンスがずば抜けていると思うのでした。
恐山の番組と随聞記を読む会のお知らせ
先日のヨーガ・スートラクラスでちらっとお話しした南直哉老師の番組がアーカイブで見られるようですので、リンクを貼っておきます。
コロナの第4波で搬送困難が相次いだ関西で訪問看護をされている方が恐山の老師のもとを訪れ、その胸のうちを老師に語るという内容です。老師の話されることがひじょうに印象的だったのですが、恐山という舞台からも印哲喫茶のテーマでもある死生観について考えるヒントをいただきました。お時間のあるときにゆっくり観てください。
海外向けのプログラムなのでナレーション等英語ですが、会話は日本語です。
それから、オンラインの星覚さんと随聞記を読む会を27日に行うことが急遽決まりました。新しい試みとして、坐禅は各自行っていただき、「正法眼蔵随聞記」の購読のみオンラインで行います。みなさまのご参加をお待ちしております。