CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

プラクティスをおろそかにすると......

ここしばらく、怒涛の日々でプラクティスがあとまわしになっていた。「非常時モード」のときはそれもありだと思っている。屋根に大雪が積もっていたら、まず雪下ろしをしなくてはおちおち坐っていることもできない。

が、プラクティスをおろそかにしていたら、自分の汚れがあちこちから浸み出してきた。うわっ、まだこんなに私汚れていたのね。ヨガや禅をやる前にはおなじみだったこの汚れの正体は一体なんなのだろう? と考えてみたら、それがいわゆる「我」つまりエゴであった。

何かを達成しようとするとき、達成の願望に囚われて本来の自己を見失う。目の前にあるのがその願望ばかりになって、首尾よくいくかどうかだけしか見えなくなる。すべては願望としての結果のために行われ、いいか悪いか、やりたいかやりたくないか、好きか嫌いかという二元的な見方しかできなくなってしまう。

そのとき、待ってましたとばかりに「我」が登場する。
願望(欲望)達成のためにマインドはくもり、感じる力は損なわれる。うまく進んでいるときは満足するが、思うように運ばないと怒りや悲しみが湧いてくる。

こういった「我」の汚れをとるのがヨガや禅の行である。
つまりプラクティスをおろそかにするということは、お掃除をしないということであり、お風呂に入らないとか、歯を磨かないということなのだ。

いつもどおりのプラクティスを再開したら、穏やかな毎日(aka安らぎくん)が戻ってきた。
ヨーガ・スートラクラスをやりながら、この時間は私自身にとっても大事な時間なのだと感じた。ヨガ哲学のクラスをやっていると、何がなくても今が満ち足りているということが学びの内容からも、その場の雰囲気からも受け止められる。これもまたプラクティスのひとつなのだ。


この日はヨーガ・スートラクラスのあと、もうすぐムーミンの国に旅立つN嬢の「いってらっしゃい会」をした。
マダムママのケータリングサービスを頼んだら、参加者が30人でも食べきれないほどのご馳走が並んだ。

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お品書きだけでもお腹いっぱいになる


美味しいご飯、楽しき語らい......。

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どう考えてもお稲荷さんひとり3個は食べないと、だよ


最後は大量にお持ち帰りしてもらった。翌日は余り物だけでお腹いっぱいだったよ。

肉体労働ばかりしていたので、文化的なものに飢えている。
そして正法眼蔵の勉強にも戻りたいなあ......。

(たぶん秋以降でしょうね)