無念無想ということ
「無念無想の境地とはどういうものですか?」
坐禅会でよく出る質問です。
無念無想になれないから私はダメとか、無念無想の境地に興味津々とか、坐禅を習ったら無念無想になると思っているとか、人それぞれにこの言葉を意識しているようです。
私自身の経験で言えば、「目指しているときほどなれないもの」が無念無想。
澤木老師がある短歌を引いてコメントしているものを今週の言葉として掲示板に貼っておきました。
出典:「生きる力としてのZen」大法輪閣
『この秋は雨かあらしか知らぬども 今日のつとめに田草とるなり』
なんの文句もなくただ稲を育てる。この努力、これが無念無想ということである。
さすがは澤木老師。グッと響きます。
田んぼで稲を育ているだけにリアルに感じられるというのもあるこのお言葉、毎日のプラクティスというものはまさにそういうものなのです。無念無想とは、この練習ぶりがどうであるとか、今日練習したからこの先どうなるということを忘れている状態なんですね。道元禅師のおっしゃる「修行する姿そのものが悟りである」にも通じている深い言葉です。
自分で書いておきながら、見るたびにいい歌だと感じ入っております。
CHAZENの田んぼでは、みんながせっせと草を取ってくれているおかげで稲がすくすく育っているようです。実りの秋が楽しみな邪念邪想のこのごろです。