CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

今日よりよい明日はない

マイソールクラスのあと、ひだまりの中でサンスクリットを眺めていると、半身浴のシュー太郎と同じように目がトロンとしてガクッと落ちる。1日の多くを机に向かう日は、なんと穏やかで平和であることか。

この春リトリートハウスを手に入れたところから、ずっと肉体的にも精神的にも戦の日々であった。身の程知らずな買い物に破綻の文字が脳裏を横切り、通帳残高に冷や冷やしながら、なんとか自力で庭を整えた。と思ったら、田んぼの収穫で大わらわ......。

もっと稲刈りを楽しみたかった。ハザかけを楽しみたかった。と今になって思う。
いつも時間との戦いで強引に作業を終わらせていたことを残念に思うけれど、仕方あるまい。甘く見ていたとは言え、こうなることは覚悟の上だったのだから。

好き好んで困難を選んでいるわけではないのに、持って生まれた性質が人生にわざわざ波を起こしてしまうらしい。自分で起こした波に巻かれ、もんどりうって息も絶え絶えになることがわかりきっていながら、起こさずにはいられないという、死ぬまで治らないこの性分はどんなカルマのなせるわざなのか。

平穏な時間がうれしくて毎日活字を読み続けているせいか、妄想が活発でよく夢をみる。
今朝方目が覚めて、あの温泉はなんという温泉だったかな。あの道はどこに通じている道だったっけ。いつもループしてしまうあの道路......と夢に出てきた場所を特定しようと考えたら、それらはすべて私の夢によく出てくる、というか夢の中にしか出てこない架空の場所だと気づいた。間違いなく過去に何度もその場所の夢を見ているのだ。


先日、玉村豊男サンの『今日よりよい明日はない』という本を読んだ。
若い人にどの程度知られているかわからないので書いておくと、玉村豊男サンはずいぶん昔に東京からまず軽井沢に移住して、その後もっと長野寄りの東御市というところでヴィラデストというワイナリーを始めた方である。

この本の最初のほうに夢についてのエピソードが語られている。誰かが何かを成し遂げたとき、インタビューでは「夢が実現しましたね」とか「次の夢はなんですか」という質問が出る。それが、軽井沢移住もワイナリーも夢というわけではなく思いつきだったという玉村サンにとってはちょっと違うと感じるそうだ。

あー、わかりますその気持ち。
CHAZENをオープンしたとき「夢が実現したんですね」と言われて、なんか違和感があった私にはわかる。社交辞令のように発せられるいわばお祝いの言葉のようなものだから、そうなんですと言っておけばいい話なのだけど、いや夢じゃないからと言ってしまったのだよ。将来は朝のマイソールクラスをやるぞなんて決意した記憶はなく、インドから帰ってそうなったという成り行きだった。リトリートハウスもまた然り。ただ、機運が高まって実現に至ったというだけなのだ。

私にとっての夢とは、実現がかなり難しいというか非現実的なことに限られるのだと思う。定職を持たずに旅する生活をしたい、とかね。何かの願望があった場合、それを夢見ながら実現に向けてお金をためるとか、なんらかの努力をするのが世間一般の「夢」なのだろうけど、私はやろうと思ったときにはもうやっちゃっている身の程知らずだから、夢を見ている時間がないのよ。

ただ、今朝の夢のように、イメージは脳の中でしょっちゅう生成されていたとは思う。夢という認識はないのだけれど、どこかに刻み込まれていたからこそ、その時が来るのかもしれない。

本の話に戻ると、それくらい人は明日を語ろうとするし、夢というものに価値を置くということだ。
子どもだったら夢があったほうが子どもらしい希望に満ちていて微笑ましく思えるけれど、いい大人になって無理に夢を求める必要はないのじゃないか。明日はもっとよくなるようにという姿勢がいいことだと考えられている。いわゆる前向き志向は一見すばらしく感じられるけれど、これが多くの人を疲弊させてもいる。

明日を夢見ずとも、日々のなすべきことを紡ぎ、その中に楽しみを見い出したらいいのにね。

「今日よりよい明日はない」っていい言葉だ。
なんでも、ポルトガル(だったか?)のバーテンから聞いた言葉だそうだけど、20年前のワタシにも聞かせてあげたかった。

とか言いながら、私も玉村サンのように軽井沢をステップにして終の住処を見つけたいという野望が芽生えている。できれば山から木を切り出して自ら粗末な小屋を建て、電気も水も自給したいという実現不可能なこの妄想こそ、私にとっての「夢」なのである。

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立てかけたプールで見る夢はどんなかな