以前より一度お話を聞いてみたいと思っていた南直哉さんの講座へ。
直哉さんは永平寺に長く安居されていたお坊さんで、その当時はダースベイダーの異名をとる厳しい先輩僧だったらしい。時としてたいへん難解なことをおっしゃられるため、仏教かじったばかりのころは理解できなかったが、『「悟り」は開けない』という本を読んでからは納得することが多くなり、常に注目しているお坊さんのひとりである。
ナマ直哉師は私が描いていたイメージとギャップのある人であった。
「〜でございます」調でしゃべられるのだけれど、いかにも僧侶といった静かで穏やかな雰囲気ではなく、理知的でキレ者という風味を決して前面に出しもしない。意識的にそうしているのか、素がそういう人なのか不明だが、ややオーバーなアクションで扇子を振って、時に過激な言葉遣いで話すさまはどう見ても「講座」というよりは「高座」、噺家の落語を聞いているようだった。
若干そこになじめない感じはあれども、話の内容はおもしろくて、脱線に次ぐ脱線。かと思いきや、最も重要な落としどころはハットトリックで決めるなんざ、さすがの話術。
仏教界でもっともたくさんの著書があると思われる某仏教者とか、某テーラワーダの僧侶を名指しでバッサリ斬っておられたが、そのメジャーなお二人の言葉がぜんぜん心に響かない私としては「やっぱり」と大きくうなずいたのであった。
曰く、古い仏教者、じいさんはダメだと。語り口が古いのだと。
古い教えを聞いたままに伝えてもダメ。自分が体感して、納得したことでなければおもしろくないとおっしゃられる。
おお、まさに私が考えてることそのものズバリではないですか。
なんだか応援されてる気がしたね。
最近、もっともらしい、教科書的なことを講義する気がしないんですよ、私。
私が伝えたいのは、サンサーラがどういう意味で、プルシャとプラクルティがどうで、なんつーことじゃないんだよね。それもまたひとつの要素であるから伝えるし、それがわかるとおもしろさも倍増するのは確か。
だけど、オレは予備校の教師じゃねえんだよ!
そんなもん覚えたからってなんにもなんねーんだよ!
(直哉師に感化されて毒舌が炸裂)
というわけで、今後の座学クラスではちゃみこさん暴走する可能性大アリ。
今さら驚きはしないでしょうが、よいこちゃん的なお勉強の枠から離れますよ。
どうぞ暴走っぷりを見物にいらしてください。