CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

いつだっていい塩梅

8月の終わりごろ、ブログを書き始めたものの「お前の話はつまらん!」と思って途中でやめて、でも一応保存しておいたことがあった。いつも、そのときの気持ちを旬のまま書こうと思っているので、保存してもだいたいは破棄するのだけど、その後暗示的なことがあったので拾ってきたのが以下。

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CHAZENの新学期がいい塩梅です。
平日マイソールは予約なしでも混み合うことなく、スペースが埋まりそうになるところで誰かが上がるという、ちょうどよい加減なのです。5時半オープンなど、コロナがなければ考えられませんでした。

いや、5時半オープン以前に練習生の数がだいぶ少なくなったからなのですが、コロナ後の定員にぴったりの人数になったこと自体がいい塩梅なのだと思います。毎朝、CHAZENを必要としている人がこんなに存在するのかと驚き、またそれをありがたく思います。

CHAZENを始めた当初、それまで公民館でやっていたマイソールに来ていた人たちが少しずつ離れていったことがつらかった時期がありました。人はなくしたもの、過ぎたこと、足りないものについて思いを巡らせては、何がいけなかったのかとか、あのときああしていれば......などと考えるものです。毎日やるのがアシュタンガだということに気づいてCHAZENをスタートしたので、それまでの「仮」マイソールから変化するために避けては通れない痛みでしたが、それまで楽しくやっていただけに、詮ないことをウダウダと考えてばかりいました。

そんなある日、ハッと気づいたのです。「いま練習に来ている人たちに目を向けよ」と。いなくなった人ではなく、いま練習に来ている人のことを考えるのが私の役目だと。

いつも思うのですが、私がヨガを通じて力になれることは「CHAZENに来てくれる人」に対してのみ可能です。たとえこの人をなんとかしてあげたいと思っても、その人が自らやる気になってCHAZENの門を叩いてくれない限り、私には何もできないのですよね。だから、CHAZEN学園に入学したいという人に対しては、手放しで歓迎しております。

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ここまでで止まったのは、つまらないというよりは、先の見えない現状でこういうことを綴る虚しさを感じたからかもしれない。この夏から、考えるとブログが書けなくなる状態が続いている。何か書いても、何か違うような気がして途中で止まってしまったり、落とし所が見つからなくなったり。

ところが、9月に入ってから神社に置いてある今月の「生命の言葉」を見たら、これだった。

失ったものを数えるな
残されたものを最大限に活かせ 
(ルートヴィヒ・グットマン)


そういえば、これはヨガ以前にポジティブシンキングの銘として頭に刻まれていた言葉だ。今はポジティブシンキングという言葉自体を俗なる思想と敬遠している私ではあるが、なんだか街で古い友達に偶然出会ったような懐かしさをおぼえた。「失ったものを数えるな」というのは「過ぎたことを思い煩うな。今ここにあるものを見よ」というヨガ的思想だ。

それでも、まだブログの続きを書こうとは思わなかったのだけど、今日読んでいた本の中にこの言葉を見つけた。

馬を水場に連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない。
You can take a horse to the water, but you can't make him drink.

おお、CHAZENに来てくれないとヨガを教えることができないってやつだ。喉が乾いていない馬に水を飲ませることはできないのと同様、ヨガの必要性を感じない人にいくら教えてもアシュタンガはキツくてつらいと思うだけだよね。

水を飲みたい馬はぜひCHAZENに来てください。(ちがうやろ)

あともうひとつ「その場にふさわしい人数が集まる」って星覚さんが言ってたなと思い出した。

いつだっていろいろがうまく配分されているんだと思う。誰が悪いとか、何がいけないとか考える必要なんてないんだよね。考えるとしたら、どうやったらもっとイイカンジになるかってこと。それもたぶん、ふだんやることやってたらいらないさね。

24時間365日の修行を続けるだけよ。



こないだの陰ヨガにて。最後のシャヴァーサナでシャバを離れゆくみなさん。

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ぐーすかぴー