CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

沈黙という武器

久しぶりに朗報です。
茶禅会がオンラインの星覚さん坐禅会になります。

正法眼蔵随聞記』を最後まで読み切りたいという思いだけで続けてきた茶禅会ですが、この非常事態宣言下にシューさんの発作が重なり、オンライン化を考えたとき、オンラインなら自主練的な茶禅会である必要がないと気づきました。

オンラインよりもリアルが好まれるのがCHAZENではありますが、たとえオンラインでもホンモノのお坊さんがいるといないのでは大違いです。最近とみに、禅が伝わるのはコトバによってではないと痛感していたところでもあり、ちょうどそのタイミングでの切り替えです。

先日のヨーガ・スートラクラスをきっかけに、世の中の悪(とされるもの)に対する禅のスタンスについて考えています。最初はシャバ世界の価値観に引きずられていて、本を読んだり話を聞いたりしても理解できなかったことが、禅にどっぷり浸って数年を過ごすうちに、知らず知らずその意味するところがわかってきたように思います。

思い返せば、星覚さんと禅の旅やCHAZENで接心、また応量器飯台のワークショップなどを通じて同じ釜の飯を食い、そのふるまいや言動から少しずつ影響を受けていったように思います。指導を受けたという感じはなく、ただ同じ空間と時間を過ごした積み重ねにより、少しずつ私のカラダに禅が染み込んでいったのでしょう。

それこそがまさにインド系プラクティス(実践)の本意だと思うのです。なんだかよくわからないけど、プラクティスを続けていたらそうなっていたというのがインド系。現代人は、合理性や即効性を求めると思うのですが、インド系は非合理的で遅効。だからこそ、現代人に必要なのでしょうが、だからこそ、わかりにくくて続かないのかもしれません。

先日のスートラクラスにおける「無関心」について、それは「沈黙」と言い換えてもよかったかもしれません。ヨーガも禅も基本は沈黙の修行です。沈黙によって自分を変革していく修行はまた、他をも沈黙によって動かすものなのだと思います。武力や言論の力ではなく、黙って坐ることによって変革をもたらす。変えようとするのでもなく、沈黙によって何かが「変わる」のです。

今の私にはそのパワーの大きさがイメージできるのですが、これは頭で考えても理解し難い。人は長い間待っていられず、大きなアクションを起こして早く変えようとします。今はみんなが早くコロナが収束してほしいと考えているでしょうが、まだかまだかと思うほど長い時間に思えるものです。

マイソールの練習を長く続けている人には、なんとなくであっても、この沈黙の力がわかるのではないかと思います。それがスポーツで身体を動かすエクササイズとの違いなのかとも思います。そして、それこそが「祈りの力」であると私は思っています。

と思いつくままにつらつら書きましたが、うるさい黙れ! ですね。
続きは24日の坐禅会で。

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朝の祈りの先にある空