CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

魂がなくなる

先日、沿道に自転車競技の観戦者が詰めかけたニュース記事のなかで、ざっと見100%の人がスマホをかざしている写真を見て違和感を覚えた。どうしてもリアルで観戦したかった気持ちならわかるけど、自粛が呼びかけられている中、密になってまで観戦するならなぜそのふたつの目で本物を見ないのか。

先日の解剖学講座では、プロジェクターに映し出されたPPTのスライドを受講者の大半がスマホで撮影していて、ひどく気になった。2日間で300枚近いスライドが映し出されていたのだけど、スライドが変わるたびにあっちでもこっちでもカシャカシャ音がするのは異様な光景だ。理由ははっきりわからないけれど、それは居心地の悪さを感じさせるものであった。

リアルで参加する意味は、情報を漏れなくキャッチすることよりも、その場全体に流れる空気を感じることであり、言葉で発せられる以上の話者から伝わるナニカであると思う。スライドの情報を1枚漏らさず持ち帰ることが目的なら、Zoomで受講してスクリーンショットを撮ったほうがいいんでないかい?

そんなことを思っていた矢先、武術家の光岡先生の講習会を主催されている方から、板書の撮影が禁止になった旨のメールがあり、一億総スマホ時代の「写害」が顕在化していることを実感した。これまでも参加者が講義のときに写真を撮る場面は多く見てきたけれど、気になったことはない。それが自然な流れであるときは気にならないものだ。

光岡先生は飛び抜けてプリミティブな方。
ハワイで裸馬に乗っているような、すべてを直感で悟っているようなイメージがあって、天から特別な能力を与えられているような気がする。だから「撮影をすることで何か欠けてしまう」と感じるのだろう。

バーチャルでなんでも済んでしまうこの時代だからこそ、せっかくの対面のリアル講義では知識ではなく、言葉ではないナニカを、カラダ全体で、五感で、アナログに受け止めてほしいと思わずにいられない。大事なのはホワイトボードに書かれたその言葉ではなく、その場で感じたあるいは気づいた自分の内側にあるナニカなのだ。

先日の解剖学講座もちょっとそんな風味が漂っていた。
「心を虚しくすれば身体は実る」とかね。

昔の人は写真を撮ると魂が抜かれると信じていたらしいが、便利だからとノートをとる代わりに撮っていると、そこに魂はなくなるような気がする。光岡先生の言われる「何か欠けてしまう」というのは魂のことかもしれないな。

また光岡先生の武術講座を受けてみたくなった。

chayoga.exblog.jp

そもそも武術に興味を持ったのは、最初に光岡先生のワークショップを受けたころ、アシュタンガヨガのアーサナ練習をいかに自然体で稽古するかということをテーマにしていたからだった。それがわかりかけてきたところで腕肩が動かなくなり、最近はもうすっかりそんなこと忘れていたけれど、中医学でオモテとウラという観念が出てきたときに、中国武術のことを思い出した。今なら理解も深まりそうな気がする。

この不安定な世の中をしっかり地に足つけて渡るには、強くしなやかなアタマとカラダを持ち続けること。そのための鍛錬はカラダで行わねばならない。アタマだけわかっていても、いざというときには役に立たないからさ。最近アタマ偏重で肉体を磨いてない私はちょっとアブナイかも。

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