CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

淋しいおさかな

淋しい。淋しい。
夢に出てきたおさかなが涙を流します。

淋しいってどういうこと?
女の子は聞きますが、おさかなはただ泣くばかりです。

女の子は答えを見つけるために旅に出ます。
やっと海にたどり着いたけれど、
ずっと女の子を待っていたらしいおさかなはもういません。

そのとき女の子は淋しいということがわかって涙をこぼしたのでした。



きょう2回淋しいと感じたので、
小学生のとき好きだった別役実のお話のことを思い出したのです。



淋しいってどういうこと?

ちゃみこさんは考えました。


楽しかったことや心を通わせた人が失われたときの感情。

それが無常といふことであります。


どんなに「無常」を理解しても、
どんなに修行をしても、
ちゃみこさんからこの感情がなくなることはないでしょう。

でも、その淋しさもまるごとひっくるめて
「これでいいのだ」と思えるようになるのだと思います。

幾山河こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく
若山牧水


ほんとうはこの淋しさを愛しんでいるのかもしれません。


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最初で最後の最初と最後のギータークラス

本日は昨年からの第6期ギータークラスの最終回であったが、そこに23日からスタートするダイジェスト版ギータークラスのイントロをくっつけるというすごい荒技を考え出したちゃみこさん。それはないよねと自分でも最初は思ったけれど、そうでもないか? 意外といいアイデアではないか?ということで実現させてしまった。

イントロというのは、ギーター読むのが初めての人向けにマハーバーラタから連なる物語の背景を紹介するというもの。まったく初めての人が2〜3人参加するイメージだったのだけど、あまりに大入りでびっくりした。都合悪いはずの人も、仕事だった人もなぜかきているし。昨年までにギーターをコンプリートしている人たちまで。

すげー!
やる気だよ。皆の衆。

そして初めての人もほとんどは第1章とイントロを聞いたあと、最終章の購読にも残っていかれた。
物語の始まりと結末の、これぞ究極のダイジェスト版は、ヘンテコなのにめちゃ収まりがいい不思議なクラスとなり、1回でギーターのよさがばっちり味わえるおまけつき。もう二度とこういうクラスはないでしょう。

できるだけ粛々と重要なことだけを話して、飲み屋で機嫌よくなってしゃべりまくるオヤジ風の語りを省くのが私の課題なのだけど、やっぱりいったんギーターを開けばやっぱりそこは新橋と化し、熱く、しつこく語ってしまう。こんなことでは、今まで月1回で1年かけて読んできたものを4回に圧縮することはできないぞ。ここぞという箇所に絞ってまとめないと絶対ムリだけど、ギーターの詩句はどれもこれもいいので、泣く泣く断捨離するしかない。

今日のちゃみこ節は、インド思想によって既存の価値観や物の見方を別の視点に切り替えることができるという話。ハッとしたり、ギョッとすることでマンネリ化した思考を顚倒(てんとう・転倒と同じ)することだ。

この発想を転換することによって、ものごとのありようは変わってくる。いや、ありようは変わらないのだけど、自分のありようが変わるので別のものに見えてくるのだ。

その第一歩がカラダの浄化であり、毎日の朝練である。ここから浄化=お掃除が始まる。カラダが浄化されないとこういう話もカラダのなかに入ってこないんだろうなあと感じた。ヨガが体操だと思っている人がギータークラスに出て、何言っているかぜんぜんわからず挫折というのはよくあるケースなのだけど、何年かたつとそれがわかるようになっているものだ。朝練を続けていると、知らず知らずのうちにカラダでインド思想を理解するようになっているのだと思う。それが「毎日やるのがアシュタンガ」なのさ。

坐禅もそうだけれど、ヨガはアタマではなくカラダで理解するもの。だから99%がプラクティスでセオリーは1%なの。1%の理論を99%の実践でカラダに染み込ませるとも言える。

理論と実践はぜひセットで受講されることをおすすめします。

CHAZENの「朝ヨガ」なら、どなたも安心して朝練を始められます。

www.chazenyoga.com


朝ヨガで柔軟性が高くなったり、運動機能が向上するのは「おまけ」であり、大事なのはカラダと感覚器官の浄化。この「浄化」を今日は抜けるように晴れた青空にたとえてみた。朝練のあとはココロもカラダも雲がなくなって青空がパーっとひろがる感じだから。

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下界は晴れていても浅間山は雪模様。

2020シーズンに向けて整備中

ようやく今年も冬らしい冬がやってきて、神楽坂CHAZENのベランダでもメダカのいない睡蓮鉢に氷が張った金曜日、最低気温がマイナス13℃のリトリートハウスの室温は......3℃であった。

おお、偉大なるスーリヤよ。
床暖もパネルヒーターもないけど、太陽という人類に平等に与えられた暖房器具のおかげで室内がマイナスにならずに済んだ。

薪ストーブをソッコーでガン焚きにして、止めておいた水を出して、ごはんを食べた部長が寝たのを見計って外作務へ。今回は寒すぎるから外には出ずに家の中でできる仕事をしようと思っていたのに、やっぱり外に飛び出してしまう。

ちょっとだけと思って出たけど、結局はあれもこれもやりたくなり、斧をとりに家に入ったら......

毛布かぶったまま彷徨っている犬が


翌朝はさすがに寒く、練習しようとマットに乗ったらハダシの足が冷た過ぎて早々に撤収し、いちばんカラダがあたたまる落ち葉掃き作務に切り替えた。完全に乾燥しているから作業が進めやすいし、汗だくにならず、アブのストーカーにも付き纏われないから、手付かずだったところまで進めていくことができた。雪がなければ冬のほうが捗るということに気づくと、今のうちにあれもこれもやってしまいたくなり、またまたやめられないとまらないの爆働。

気温の上がった頃合いをみて部長接待のお散歩。

日陰はまだ雪が残っている


部長は余裕でスタスタ歩いてたけど、自分が疲れててサンデーパーク止まり。

粉砂糖を振りかけたような浅間山


さて、業務報告。

1.地面に直置きしないよう薪の積み直し。

薪割り前の暫定置き場だけどね

2.ウッドデッキスペースに置いてあった木のうち、薪になりそうなのを薪割りして、腐っているものも囲いなどに利用してウッドデッキを作る準備。

ここだけ放置してあったの


3.木の枝を剪定したり、小さな笹を刈って、枯れ枝や落ち葉を掃除。

これが敷地の南側全体


今朝は出発まで裏山(敷地外)の整備。マダニの季節になる前にもうちょっとなんとかしたい。冬は何もできないって決めつけていたのは浅はかであった。むしろ冬こそチャンスなのに......。

2020シーズン開始に向けて、少しずつ動き出しております。日程をリクエストされる方(特に土日祝日)は早めにご連絡ください。お待ちしております。


それにしても、最近は動かない仕事ばかりでのらりくらりしていたせいか疲労が甚だしい。くたびれ果ててヨレヨレですわ。

野生の呼び声

数日前にジャック・ロンドンの犬のストーリーを柴田元幸さんが選んで訳した「犬物語」という本を借りてきた。その中のひとつの短編だけを、仏教書のチェイサーとして読むつもりだったのだけど、収録されている「野性の呼び声」が気になって思わず一気飲み(読み)。

野性の呼び声。
なんと懐かしい響きだろう。その本は小学生のときから家にあった(昨年断捨離した)けれど、実際に読んだかどうか記憶がない。読んだにしては内容が思い出せず、読んでないにしては愛着がありすぎるのだ。

それを確かめるように読み始めたが、たぶん小中学生の私には読み進めることができなかったと結論した。感受性が強かったそのころは犬が痛めつけられる描写に耐えられなかったと思う。

血なまぐさいシーンは今もなお耐えがたいが、それを凌駕するだけの魅力にあふれた物語であった。犬目線で語られる文章に引きつけられ、主人公の犬バックに感情移入し、嗚咽するほどの感動を味わった。バックの気持ちになりきったとき、もしかしたら私は人間よりも犬に近いのかもしれないという気がした。ともに育ち、あるいはご縁あって触れ合ってきた犬たちとの友情は特別だからだ。

プリミティブに惹かれるのは、私の中の野生が呼んでいるのかもしれない。
文明に飼い慣らされ、鈍って、麻痺したこのカラダの、どこかに潜んでいる太古の記憶がそれを忘れさせまいと呼んでいるような気がする。私は特にそれを感じるけれど、この呼び声は誰の中にもあるのじゃないか。

自然の中で人がある種の感慨を味わうのは、どんな都会育ちの人であっても、もとは(祖先は)その中にあったこと、その一部としてなじんでいた記憶がよみがえってくるからではないか。まぎれもなく同じ空気を吸い、同じ大地に根ざしているひとつの大きな生命そのものだと感じられる。理由を説明できないようなある種のシンパシーを抱くのは、カラダの奥深くに刻まれた原始の記憶が呼び覚まされるからではないか。


ちょうど明日からお山だ。
折しも寒波到来で今日の最高気温がマイナス3℃、明日の最低気温がマイナス12℃だそうだから、ちょっぴり野性を味わうのにもってこい。寒さが厳しさとともにある美しさと清澄を呼び起こしてくれるだろう。

我が相棒は野生味からは遠く離れてしまったけれど......

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ん? あんだって?


ところで、「野生の呼び声」にはドラマティックなシーンがいくつもあるので、誰かが映画化していただろうかとググったら、ディズニーで映画化され、まさに今月末に日本で封切りらしい。予告編を見てみたが、これはアカン。わかりやすくすると本来の味わいは雲散霧消してしまう。もし興味をもたれたら、まず原作を読んでみてほしい。日本語であれば柴田元幸訳はおすすめ。

人間関係に悩んだら

よく言っているのだけど、CHAZENに来る人は社会の上澄みだなあと思うわけ。
なんとかしてこの人の力になってあげたいと思う人ほど、来てもらえないのね。そこに無力な自分を感じていたのだけど、最近は私のミッションはきっと上澄みの人たちが沈殿しないための、あるいはもっと透明になるためのお手伝いなのだと思っている。

上澄みの人たちであっても、ほとんどは対人関係にモヤモヤした思いを抱いているし、時に気分がどんよりしたり、自己否定にとらわれたりするものだからね。もちろん私もいまだにそういうことはあるけれど、以前の自分に比べたら雲泥の差がある。

何が変わったのか考えてみた。
まず、加害者にも被害者にもならず、第三者的な位置から眺めるようになった。これだけで事態はかなり軽くなる。「あの人に傷つけられた」的な当事者意識がないと、冷静に事態を収拾させることができる。

そして、誰かに嫌なことを言われたりされたりしても、どちらが正しいとかどちらが悪いという判断をしなくなった。不快な気持ちが発生するのは仕方ないとして、不快であればあるほど相手には好意的な言葉や気持ちを示すようになった。それでうまくおさまることが多いけれど、それでも無視されたり、嫌なこと言ってきたりする人はいる。そのときはそういう態度の裏にはどういう心理が働いているのかを想像して、なるべくそれを理解していれば、こじれるようなことにはならない。

そして、嫌なことがあっても別の誰かに言わなくなった。
以前の私は友達や家族に嫌な出来事を話していたけど、それをする気がしなくなった。自分が間違っていないことを確かめたくて、同意を求めるように話していたのだろうけれど、間違っているかどうかではなくなったので、必要がなくなったのだろう。話すとスッキリするということもあるけど、相手のことを悪く言っても憎悪の感情が育つだけで本質的な解決にはならない。時が経って関係者から話が回ってくるころには、私の中ではすでにモヤモヤもなくなっているから、悪口言わずに済む。

とはいえ、私はまったく温厚な人柄ではない(知ってるよって今声が聞こえたぞ)。
ダメなことはダメと一刀両断、受け入れられないことはソッコー却下。自分を殺して、我慢して、みんな仲良くやりましょうね!みたいなうわべのおつき合いが超苦手だから、バッサリやられてもんどりうってる人がたくさん。嫌な奴だと思われていることでしょうが、それも大して気にならない。誤解されていたり、理解されなくてちょっとカナシイときはあるけれど、自分の中に相手を悪く思う気持ちがないから反応は気にならなくなった。


とどのつまり、対人関係のことは、相手の反応に反応しているだけという気がする。
ヨーガ・スートラクラスで課題にしているプラティヤハーラ(感覚制御)の練習と同じで、「ふーん」とやり過ごしたら別にどってことないものなの。救急車がサイレン鳴らしても「鳴ってるな。ふーん」という風に流してしまえば気にならないものを、「ああまたサイレンだ。坐禅しているのにうるさいなあ」と思えば思うほど、それは気に障るものとして育っていく。

道元禅の坐禅は「ふーん」の坐禅だと私は思っている。
サイレンが聞こえなくなるほど何かに集中するのではなく、認識しても反応しない、それにとらわれないという坐禅

こういうプラクティスを続けているうちに、同じもの、同じ現象が、自分のマインドひとつでぜんぜん別のものや現象になることがよくわかるだろう。こればかりは頭で理解しただけではうまくいかない。感情は理性だけではコントロールしがたいから。これまでの人生でこびりついた思考の習性はなかなか手強いのだ。


じゃ、人間関係に悩んだらどうすればいい?


結論:

まずは朝練!CHAZENの朝ヨガ!
そして、座学と禅のクラスで理論と実践。

CHAZEN学園でお待ちしております(ニヤリ)。


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悩み無用(電話番号ではありません)

初心者にやさしい茶禅会

本日の茶禅会はビギナーズフレンドリーバージョン。
ていねいにガイドをして、いつもより短いお香を焚いてお手柔らかな坐禅をした。

坐禅のあとは豆まき。

今年も鬼役は部長です。

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顔につけたいところだけどね


昨年は撒いた豆をむさぼり喰らっていた部長だけど、今年は事態を把握できていないようであった。

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ただボーゼン


昨年は鬼になって大はしゃぎしてたんだけどね。

chazen.hatenablog.com


豆まきのあとは、そのお豆と、青森の郷土菓子「豆しとぎ」をいただきながらお茶。
お寺だとお茶の時間も黙ってお茶をいただくことに集中するのだけど、CHAZENではリラックスモードでカジュアルにおしゃべり。そこが「坐禅会」ではなく「茶禅会」と称するゆえんであります。


本日は「正法眼蔵随聞記」のほかに「執着を捨てる四つの智慧」ということで「正法眼蔵」より「菩提薩埵四摂法」について紹介しようと考えていたのだが、ワタクシその準備をすっかり忘れておりまして。

資料はすべて机の上に出しておいたのですよ。
それなのに、昨日は午前中に手前味噌を仕込んでから大慌てで南直哉さんのお話を聞きに出かけ、帰ってきてからはその話のことがずっと頭をめぐっていたし、ブログを書いたら前夜の寝不足からコテっと寝てしまったのだった。

今朝それに気づいてアセったわー。
なぜって私の手元にある「正法眼蔵」には口語訳がついてないので、準備なしに紹介するなんてとんでもない話。

でも、結果的に忘れてて正解だったかも。
星覚さんの本に買いてあることと、私が十分理解して記憶に残っていることだけを話したので単純明快になったような気がする。

久しぶりの方たちが参加してよかったと笑顔で帰っていかれたので、これからは随聞記以外にも持ち帰ってもらう「おみやげ」を用意しておこう。おみやげ付きだとちょっとソソられる、でしょ?

次は3月8日です。


それはそうと、私が禅の話ばかりしているので「ちゃみさん出家してしまうのでは?」疑惑が浮上したことを思い出した。そう思うと、リトリートハウスができたら引退疑惑が出るのも当然の成り行きなのかもしれない。

しかし、インドに行っても「ちゃみさん帰ってこないのでは?」と心配した人はいなかったなあ。

暴走宣言

以前より一度お話を聞いてみたいと思っていた南直哉さんの講座へ。
直哉さんは永平寺に長く安居されていたお坊さんで、その当時はダースベイダーの異名をとる厳しい先輩僧だったらしい。時としてたいへん難解なことをおっしゃられるため、仏教かじったばかりのころは理解できなかったが、『「悟り」は開けない』という本を読んでからは納得することが多くなり、常に注目しているお坊さんのひとりである。

ナマ直哉師は私が描いていたイメージとギャップのある人であった。
「〜でございます」調でしゃべられるのだけれど、いかにも僧侶といった静かで穏やかな雰囲気ではなく、理知的でキレ者という風味を決して前面に出しもしない。意識的にそうしているのか、素がそういう人なのか不明だが、ややオーバーなアクションで扇子を振って、時に過激な言葉遣いで話すさまはどう見ても「講座」というよりは「高座」、噺家の落語を聞いているようだった。

若干そこになじめない感じはあれども、話の内容はおもしろくて、脱線に次ぐ脱線。かと思いきや、最も重要な落としどころはハットトリックで決めるなんざ、さすがの話術。

仏教界でもっともたくさんの著書があると思われる某仏教者とか、某テーラワーダの僧侶を名指しでバッサリ斬っておられたが、そのメジャーなお二人の言葉がぜんぜん心に響かない私としては「やっぱり」と大きくうなずいたのであった。

曰く、古い仏教者、じいさんはダメだと。語り口が古いのだと。
古い教えを聞いたままに伝えてもダメ。自分が体感して、納得したことでなければおもしろくないとおっしゃられる。

おお、まさに私が考えてることそのものズバリではないですか。

なんだか応援されてる気がしたね。


最近、もっともらしい、教科書的なことを講義する気がしないんですよ、私。
私が伝えたいのは、サンサーラがどういう意味で、プルシャとプラクルティがどうで、なんつーことじゃないんだよね。それもまたひとつの要素であるから伝えるし、それがわかるとおもしろさも倍増するのは確か。

だけど、オレは予備校の教師じゃねえんだよ!

そんなもん覚えたからってなんにもなんねーんだよ!
(直哉師に感化されて毒舌が炸裂)


というわけで、今後の座学クラスではちゃみこさん暴走する可能性大アリ。

今さら驚きはしないでしょうが、よいこちゃん的なお勉強の枠から離れますよ。


どうぞ暴走っぷりを見物にいらしてください。


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最後に暴走したのはいつだったかなー  しう