CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

こころの再生のために

ごきげんよう
夏の分校滞在3日目となりました。
コロナもひどいけど、とにかく長梅雨がひどいです。昨年もでしたが、今年はそれを上回っています。

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今朝のビミョーな空


きのうの作業はまず、浄化槽の上のコンクリートに2センチくらいたまっていた泥を掻き出すところから始めました。大雨が降るとお隣から水が流入して、低くなっている部分に泥が入ってきてしまうのです。

熊本や岐阜など、先日の豪雨で浸水被害に遭われた方たちに思いをはせました。昨年はここからそう遠くない長野や佐久でも浸水被害が出ました。私が掻いたのはせいぜいバケツ一杯分くらいの泥ではありますが、実際にその作業をするだけで、その何千倍もの土砂を片付ける苦労がリアルになります。被災された方に心からお見舞いの気持ちが湧いてくるのでした。

と同時に、復興のための作業自体はこころによい作用をもたらすと実感しました。「再生」という具体的で前向きな目標は立ち上がる気力を促し、希望に向かうことを可能にします。この再生に向かって体を動かす作業は、ひどく打ちのめされた気持ちをも再生する働きがあると思います。

ひと月放置した雑草を抜いていると、これぞ動く坐禅であり、只管つまりBeTubeであることを確信します。まさに「ただひたすら」なのです。何も考えずにただひたすら手を動かすことで、実質的に坐禅をしているのと同じような状態になれる。これがいったん折れた心によい影響を及ぼすであろうことは容易に想像できます。

もしかしたら何もかもが便利で満たされた現代人にとっては、あたりまえの日常をつくるためにカラダを動かすということが欠如していて、それがよく言う「生きづらさ」につながっているのではないかと考えました。身体的にはラクなのに精神的にはストレスフルで、常にひまつぶしの娯楽を求めているような状態は果たしてほんとうに満たされているのかはなはだ疑問にも思えます。文明の発達がこういうカナシミを創造し、またコロナのようなウイルスを創造したのかと思うと、人類は「回向返照の退歩を学すべし」です。

山の分校は、本来の目的であるリトリート的には災難続きではありますが、悪条件を与えられたがゆえに大きなナニカをもたらしてくれたことは確かです。そのための分校であったのかと思うと、これも実は必然であることに気づくのでした。

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合歓の木の花


ところで、都では不要不急の県外の移動を避けるよう呼びかけており、分校に行っていいのか?と思われる方がいるかもしれません。NHKのサイトに以下の記事がありましたので参考にしてください。

www3.nhk.or.jp

都民の旅行について観光庁は、感染対策を取ったうえでしていただく分には否定していないそうですし、対策を取っていれば、移動による感染のリスクはかなり低いとのことです。

分校にいらっしゃる方は、へんに後ろめたい気分にならずに、しっかり感染対策をして、安心してお越しください。楽しみにお待ちしております。

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お山では紫陽花が花盛り

気づきのヨーガ・スートラ

再開後2回目のヨーガ・スートラクラスは、八支則のパートが終わって難しいインド哲学のパートに入りました。学問的な読み方をしたらおそらく9割の人は眠るか、頭の中が混乱するだけで終わってしまうであろうとみて、そこには深く踏み込まないことにしました(チラッと予告編的に口にしてみたりはしましたが)。それを知識として知ることにたいした意味はないからです。

それよりも重要なのは、なぜプラクティス(あるいは修行)が大事なのか、プラクティスをしたらどうなるのか、どこをめざしてプラクティスをすべきなのか、です。そのためにサーンキャの二元論については知っておいたほうがいいですから、第二章で学んだことの復習から始めました。今回初めてこの話を聞く人もいるので、サーンキャとは......というところまで遡ってから、現象界がどのように転変したかについてざっとふりかえってみました。

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師匠は爆睡......いえ、深い瞑想に入っておられます


もうひとつは、前回話題になったサンスカーラについて。
どうやらサンスカーラに対して誤解していた人も見受けられましたが、今日の話ですっきり明快になったようです。このあたりは単純にわかるとおもしろいばかりか、日々のあれこれをサンスカーラに絡めて考えるといろいろが楽しくなります。

毎回お茶を飲みながら、その日の講義内容や実修について気づいたことをシェアしていただく「気づきのシェアタイム」があるのですが、これがまさにその人の気づきが今どこにあるのかがわかって、私にはたいへん興味深いのです。正しく理解したかどうかというよりも、その人が何を見て、あるいはどっちを向いて練習をしているのかがわかるからです。

以前は、何か言わなくてはいけないから仕方なくありきたりの言葉を並べていた人が、自分ではっきりと気づいて自分の言葉として話しているのを見ると、心の中でよっしゃあ!と手を叩いて喜んでいます。

何を理解したのかではなく、何がハラに落ちていったのかが重要です。同じ話をしてもハッと気づくことは人それぞれ違いますし、何も気づかない人もいます。座学で学ぶことの醍醐味は、今までバラバラだったその気づきが整理統合されてハラに落ちていくことにあると思います。日々の生活の中で、あるいはアシュタンガの練習の中で感じたことがつながったときに、その気づきのパワーはより強力なものとなって自己の基礎(土台)を形成していくような気がします。

来月(8月30日)は今回の続きになりますので、どうぞお楽しみに。
ヨーガ・スートラの内容がどんなに難しくても、たとえどんなに陳腐であったとしても、なぜプラクティスが大事なのか、プラクティスをしたらどうなるのか、どこをめざしてプラクティスをすべきなのかという視点で勝手に話を展開させていくつもりです。


明後日からCHAZENの神楽坂本校でのマイソールクラスはおやすみで、おやすみ中は「自主練部隊」による練習の場となります。それで、スートラクラスのあとで自主練部隊の隊員に留守中の申し送りをしていたのですが、場所を移動しながら説明をしていると部長がグループにまぎれて一緒に移動してくるので笑えました。

いつだって、チームの一員でいたい部長です。

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サーンキャ哲学を理解する気はないようですが......

Go to, or Not go to?

(私が書くまでもなく)感染が拡大しています。
緊急事態宣言解除になった当初、山籠もりでたまっていた用事や買い物のためによく出かけていましたが、電車も街もガラガラでした。もう鬼がいなくなったとばかり人々が外出するようになったら、たちまちこうなるのです。

お酒を飲む場所で感染防止はあってないようなものです。かつて飲んだくれだった私にはよくわかるのです。お酒を飲んだら、人との精神的な距離が縮まって、物理的な距離も近づきます。唾を飛ばしてしゃべったり歌ったりしたくなるものです。お酒と抑制は相反するものです。抑制されたものを解放するためにお酒を飲んでいるのですから、しゃべらないでしんみり飲むなんて「伊勢藤」ぐらいでしかできません。

この調子でいくと1日の国内感染者が1000人越えになるのでしょうか。
CHAZENも再開して、制限された中でもいい塩梅でマイソールができていたのに、また先が読めなくなりそうです。

そして来週から分校がオープンするタイミングで、都は県をまたぐ往来の自粛を呼びかけるも、政府はまず先にキャンペーンありきで、なんともビミョーなことになっています。移動の自粛が全面解禁になる時期を見ての分校オープンでしたが、そこまでもたなかったとは......。ほんとうならば多くの方をお誘いしたいところですが、それもできず。

とはいえ、申し込みのあった数組の方たちには来ていただく予定でおります。当然ながら、明確な移動自粛要請が発表された場合は中止にしますが、参加者の感染リスクも、現地の人への感染リスクも少ないと判断しています。もちろんリスクはあるのですが、来ていただくメリットがそれを上回るということです。ある意味気持ち優先ですね。参加者に迷いがなければgo、迷うのならばstay homeです。

お達しにより中止になるならそれも思し召し。思い煩うことはありません。

それにしても分校リトリートは台風とかち合ったり、コロナにかち合ったり、とばっちりの運命を背負っているようです。
どうぞ固唾を飲んで行方を見守ってください。

来週からはまた「分校だより」をお届けいたします。

その前に19日はヨーガ・スートラクラスです。CHAZENで受講の方は18日の朝までにご連絡ください。なお、今回より外野席風味たっぷりになるとは思いますが、オンラインでも受講可能です。お待ちしております。

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ロックダウン中のぶちょー

BeTuber的茶禅会

今度はオフラインの茶禅会でした。
平日に設定したのは、コロナで外出自粛中に突如として坐禅をやってみたくなった人の存在があったからです。以前茶禅会に誘ったら思いっきり拒否られたことがあったので、それはぜひとも開講せねばと思っていたわけです。平日ならば少人数で始められるかなと。

諸事情でちょっと時期を外してしまい、今さら少人数の意味はなかったのですが、オンライン坐禅会の余韻も残っていて、心が洗われるような好い時間となりました。

文殊菩薩さまにおいでいただいてから初の茶禅会ということで、まずはみんなで御拝を上げました。御拝というのは五体投地の礼拝のことです。

......と雲水かるた大会での御拝の写真を探したら、そこでもやっぱり只管打坐の話をしていました。ということで記事ごとどうぞ。

chazen.hatenablog.com


坐禅のあとはお茶の時間。涼やかなほおずきのゼリーとラスクの差し入れとともに。

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坐禅のあとのお茶にほっとする


4月5月と2カ月間の山籠もり生活のあと、今まで強くあった伝えようとしていることを理解してもらいたいという気持ちが薄くなりました。やる気がなくなったわけではなく、アシュタンガの指導も座学で話すことも、むしろ以前より新鮮で興味深く取り組んでいるのですが、わかってもらえたかどうかということに意識が向かなくなったのかもしれません。

そんなことはどっちだっていいのです。
というより、現にこうしてアシュタンガの練習を続け、座学や禅のクラスに参加する人たちがいるだけで十分わかってもらえているのです。

本日随聞記で読んだところに「百尺竿頭上なほ一歩を進む」という禅語が出てきたので、それを『禅マインド ビギナーズ・マインド 』に出てくる鈴木俊隆老師の話にからめてテーマにしたのですが、参加者のひとりが以前私がその禅語について話したことを覚えていてくれました。私自身はそれを忘れていたのですが、何気なく話したことでも記憶に止めてくれるひとがいるのだと思うとなおさら、自分の思うとおりに理解してもらう必要などないと気づくのでした。

そもそもが頭で理解することをやめるための修行であることを頭で理解してもらおうとしていること自体が笑えます。

わかってもらおうという期待がないと、滞りがなくすべてが流れるように進んでいくような気がします。ただの管になれば、どこにもひっかからずスムーズに流れていくのです。

合言葉は、Be Tube!

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やはり師匠にはかないません

目指せBeTuber

本日はベルリンの星覚さんによるオンライン坐禅会でした。
ステイホームだった5月にできたらよかったのですが、そのときは私の準備が整っておらず見送りに。

「オンラインで坐禅ってどうよ?」
はじめは私もそう思ったように、参加をためらう人もいましたが、オンラインのよさは遠くにいる人とつながれることにあります。特に海外にいる人と一緒に坐禅できるのはオンラインならでは。一度はベルリンにいる星覚さんとオンライン坐禅会をやってみようと思ったのでした。

「オンライン坐禅会なかなかいいかも」
そう思ったのは私だけではないはずです。特にやり方次第でオンラインもいい感じになることがわかりました。

星覚さんの提案で、カメラとマイクをオフにして星覚さんの声(ガイド)だけで坐禅をしたのですが、それがひじょうに効果的でした。目を瞑って音だけに意識を向けることで、言葉のひとつひとつが響いてくるのです。星覚さんが今目の前にいて坐禅のガイドをしたのであれば、参加者はまず目で星覚さんの姿を見ながら身体を動かします。そのとき、視覚による情報に圧倒されて聴覚はおろそかになり、言葉にはさほど意識を向けていません。

オンラインでモニターを見ないということは、指導する人はもちろん、他の参加者の動きも見えないため、自然と耳からの情報に集中します。視覚がさえぎられと身体の感覚をキャッチしやすく、おのずと雑念も少なくなります。オンラインということで短めの坐禅にしていただきましたが、もっと坐っていたかったという感想が上がったのは、静かな状態で坐れたからでしょう。

坐禅の後はカメラとマイクをオンにして茶話会。
たくさんのいいお話が聞けましたが、本日のハイライトは「只管」。只管打坐(しかんたざ)というのは、ただひたすら坐禅をするという道元禅のエッセンスのことです。これはアシュタンガでいうところのPractice! Practice! Practice!にも通じるものがあります。禅もアシュタンガも実践第一なところが似ていると私は思っています。

只管というのは「ただひたすら」という意味ですが、これ実は文字通り「只の管」ということでもあるのです。

苦悩は頭から生まれます。人間は頭でいろいろなことをでっちあげては、そのでっち上げに縛られているのですが、生まれたばかりのころはそうではなかったはずです。赤ちゃんの生活はとてもシンプルで、おっぱいを飲んでオムツを汚す毎日であることを思えば、私たちがそもそも只の管だということは想像できるでしょう。

タダのクダとしての存在に戻ること、それが坐禅です。星覚さんはそれをYouTubeになぞらえて "BeTube"と言っておられました。

時代の波はBeTubeです。
YouTubeの流行りはいつまで続くかわかりませんが、BeTubeなら一生続けられます。目指せBeTuber!です。


あ、こんなことをグダグダ書いている私こそ、タダのクダになるべきですね。

師匠がお手本です。

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年齢とともにBeTuber風味が増す

雑用こそがプラクティス

ここ数日気分はローである。
長く続く雨と暗さ、各地での大雨による被害、コロナ的世相と再びの感染拡大......という外の要因に加えて、毎年恒例「夏の病」で脳に酸素が行き渡っていない、生きている感じがしないからでもある。

こういうときに、この肉体がただの物質であるばかりでなく、心もまたその一部であることを感じる。神経伝達物質のしわざだな、と。

肉体がだるかったり気分が落ちてたりしていても、物質が勝手に出ている結果だから本体とは関係ない。ちゃみこさんのせいではないのだから、放っておけばいいのだ。そう思っていつもどおりの生活をしていると、気づいたらハナウタ歌っていたりする。

あれ?ローのはずでは? と不思議に思ったけれど、掃除や洗濯、片づけなどカラダを動かして仕事をしていると自然にセロトニンが分泌されるのかもね。

それはそうと、CHAZENでは最近アフター・プラクティスのシーケンスができている。フィニッシングも最後のリラクセーションも終えたあとに行うソレは、一般的にはぞうきんがけと言われているものである。

練習が終わったらマットを拭くとともに、感染防止策のひとつとして、自分が練習した場所をアルカリイオン水で拭いてもらうことにしている。これは最初「ざっとでいいよ」とか、最後組の人には「私がやるからいいよ」とか言っていたのだけれど、途中から、これはなかなかいい練習だからむしろ積極的にやったほうがいいと気づいた。

ひとつには道場の作法というか礼というか、自分の練習した場所を浄めてから練習を終えることには精神的な浄化の作用があること。

マイソール練習に通っていたころ、練習を終えたら道場というかスタジオ内に向かって一礼してから更衣室に行くようにしていた。誰かがやっているのを見て真似したのだけど、ただ頭を下げるだけで気持ちが締まる。これは多分に日本人的な感覚かもしれないけれど、ただそれだけのことで気持ちが変わる。それがぞうきんがけなら禅風味もたっぷりで、CHAZENらしさもたっぷりではないか。

もうひとつは、永平寺式の、膝をつかないでぞうきんがけを行うスタイルは、グラウンディングに必要な足腰の使い方のヒントになるような気がしたこと。

アシュタンガをやっている人の傾向として、しなやかで軽やかな身体や四肢をもっているけれど、アシ・コシ・ハラが使えない人が多い気がする(ヴァータ的)。逆に言うと、強い下半身をもつタイプの人はアシュタンガのポーズがとりにくいのかもしれない。

みんなテレビゲームとお勉強ばかりして育ったのかー? と与作は思う。田んぼをやってみて特にそう感じた。

大地に足を根ざすとか踏ん張るというのは、ひどく昔の身体感になってしまっているのだろう。かつて農村の女性は小柄な身体で米俵(60kg)をかついでいたそうだ。仕事をする上で自然に養われる身体感が、パソコンの前で座りっきりの現代人には失われているのは当然と言えば当然である。

今月下旬からの分校アーシュラムでは、そのあたりの身体感も存分に味わっていただこうと考えている。予定ではこの週末は分校にいるはずであったが、大雨続きで中止したので、きっと雑草が好き放題に根を下ろしていることだろう。ワークショップをやらずとも、庭作務をしながらパーシャーサナの強化とか、ヒップオープニングとか、日常における身体感覚にフォーカスしてみようと思う。

現代的、西洋的感覚から言うと「雑用」と考えられることをプラクティスに取り入れることが大事。

否、雑用こそがプラクティスなり。

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ゲストが来たときは顔を出してくれるといいな......

ハイブリッド問題

コロナ禍でレジャーなど控える傾向が続いているせいか、6月はお得にレンタカーが借りられました。しかも、いつものコンパクトカーより料金設定がお高いハイブリッドカーだったのでさらにお得感満載。それにハイブリッドだとお山を往復してもガソリン代が千円代だから、地球にもお財布にもやさしい。何より、最近いい車に乗っていない私には乗り心地がとても快適に感じられたのでした。

そんないいとこ取りのハイブリッドなのですが、CHAZENのギータークラスでは、オンオフどちらの受講生にも何かしらの不便さを強いることになるようです。ギータークラスは輪読があるため、音声のコンディションが整わないとスムーズにいかないのです。性能の良いマイクを購入して環境を整えればいいのでしょうが、それほどのオンラインニーズがないので、次回以降ギータークラスに関してはオンライン受講を設定しないことにしました。

19日のスートラクラスに関しても、できるだけCHAZENで受講していただいたほうがよさそうです。机を使わなければスペース的には密にならない余裕があります。準備の都合上ご予約をお願いいたします。

きのうは8人分の席を作るのにあーでもないこーでもないと何度も机の場所を変え、向きを変えてみましたが、結局はいつもの配置に......。

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互い違いに向き合うように


やはりレッドでも座学でもオンラインならオンラインだけのほうがいいですね。
今後もし再びステイホームになるようなことがあれば速やかにオンラインクラスを考えますが、そうでない限りいつものスタイルに戻していきたいと思います。

それはそうと、ぜひとも推奨したいのはヨガや坐禅の習慣(毎日やるのがアシュタンガ)と座学のハイブリッドです(それはハイブリッドと言わないか)。プラクティスが99%であっても1%のセオリーが大事なのは、それが地図のようなものだからです。地図がなくても道に迷わず目的地にたどり着けることもありますが、多くの人は歩いているうちにどこに向かっているのかわからなくなったり、間違えた方向に進んだりするものです。

どちらかだけでももちろん一定の効果はあると思うのですが、両方そろったほうがパワーが何倍にもなります。このコロナクライシスをきっかけにハイブリッドのパワーでマインドセットを転換する人が続出することを願っている私です。

その意味において新しくCHAZENで練習する人に来ていただきたいのですが、しばらくはそのスペースが確保できそうにありません。もどかしい思いがありますが、きっとまたその日は来るでしょうから、今は今できることを精一杯やっておくことにします。

先日広いスペースがあれば......という妄想のことを書きましたが、きのう別件で古い写真を見ていたら、公民館でマイソールクラスをやっていた時代(ちょうど10年前!)の写真を見つけました。いつもは狭い和室なのに祭日だけこの広い部屋が空いていたのです。このくらいのスペースで全員が集まるレッドクラスとかやってみたいなんて思いながら眺めておりました。

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広すぎて間が抜けてる.......