CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

無常迅速 落書無用

告白します。
このところ、ストレスで私ちょっとアタマがおかしくなっております。

そんな大したストレスではないと思っていたのですが、先日アタマが痛くもあり今すぐマッサージしてもらいたいと、夜は出かけないはずの私が気づいたらネットで19時からの予約を入れておりました。セラピストさんもびっくりなほど頭や首がガッチガチで、押されると痛い痛い。睡眠の質が悪いか、ストレスかかっていると言われました。はい、両方です。自分で思う以上に実は負荷がかかっているものなのですね。ヘッドマッサージでだいぶほぐれてよくなりましたが、芯からほぐれるにはもう少し時間がかかりそうです。

さて、きょうは茶禅会でした。
デビューの人がいたのに、今日読んだ随聞記の箇所が少しわかりにくい話でした。この『正法眼蔵随聞記』は道元禅師がこんなときこんなことをおっしゃっていましたよ、というのを弟子の懐奘禅師が書き留めたものなので、エピソードが唐突に始まって前後の脈絡がわからず、意味がとりにくいことが多いのです。が、この本をずっと読んでいると、どこが重要なのかがわかってくるようになります。細かいシチュエーションなどは気にせず、大事なところだけが入ってくるようになる。

きょうの話には「生死事大なり、無常迅速なり」という言葉が出てきました。これは禅の旅で天龍寺に着いたときにドアベルのように叩く木板に書いてある言葉でもあります。口語訳には「生死を明らめる問題は重大であり、無常は迅速である」とありますが、すごく簡単&テキトーに言えば、「(仏道修行者として)この人生をいかに生きるかということは重要なテーマであり、時のうつろいはたいへん速いのだから、ぼんやりとして時間を無駄にするな」ということかと思います。

「生死を明らめる」というのはたいへん意味の深いことで(テキトーにまとめられるようなことではない)、道元禅のエッセンスのように感じられます。それでふと思い立って『正法眼蔵』の「生死」の巻を持ってきて朗読してみたのですが、文語体ゆえか、私のアタマのキレが悪いせいか、お仲間のみなさんの反応もイマイチ......。それをフォローしようと思ってかどうか、ふとこんな歌が出てきたのでした。

♪無常迅速 落書無用〜 ドラえもんドラえもん......

あれ? そんな歌詞だっけ?
でも、バカボンみたいに、マンガの中に何気に仏教テイスト入ってたりすることもあるからね。などとテキトーなことを言ってたのです。ああ、ごめんなさい。

散会して、みなさまが帰られたあと、お茶碗を洗いながらドラえもんの歌を歌ってみました。

出前迅速 落書無用〜

きゃー、出前だった〜!

どこが仏教テイストなんだよー!!


いつもの私なら、わざと替え歌にして歌ってそうですが、わざとではなく素で間違えました。やっぱり私のアタマそうとうキテます。しばらくブログはお休みして療養します......。

<お知らせ>
次回10月4日より茶禅会は10時15分の拭き作務からスタートして、10時30分には坐っている段取りとさせていただきます。どうぞよろしゅう。


本日のおやつは、某丈手作りの栗の渋皮煮。美味しゅうございました。写真がイケてなくて、これまたごめんなさい。

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マロングラッセみたい〜と大好評

オマケから始まる道

アシュタンガヨガは、数多くある霊的修養のうちのひとつの方法です。
まず身体を調えることから先に入るので、現代人が実践すなわちプラクティスを始めるのに最適な道だと思っています。

それを言うなら、巷にあふれるヨガのほとんどが身体を動かすヨガではないかと思われるかもしれませんが、多くの場所で行われるヨガは身体のみ調えておしまいということが多い。健康法のひとつであったり、スポーツ的な気晴らしであったりはしますが、それらはゴールに向かって続いている道ではなく、あちこちに散在している「道の駅」のようなものかもしれません。道の駅は楽しいところですが、道の駅に通い詰めても、道の駅めぐりをしても、ゴールにはたどり着けません。ゴールがどこにあるのかも知らないまま、道の駅に行くことが目的になっている。

ところどころで「道の駅アシュタンガ」もあるのでよく勘違いされますが、アシュタンガヨガはそもそもがアーサナを出発点として、やがてはサマーディに至るまでの大いなる道として設計されています。アーサナは出発点であり、方法であって、目的ではありません。ポーズの完成は仮の目標として各自が設定するでしょうが、それ自体は本来目指すところではないのです。

アシュタンガヨガ は自主練スタイルで練習する(マイソールスタイル)のが最大の特徴です。黙々と練習することで、練習そのものが瞑想になります。アーサナだけが強調されているように見えますが、これは初歩的な瞑想の手段にすぎないのです。

とはいえ......、
その「単なる」手段自体の効果がひじょうに高いがために、それ自体が目的になりうるのもまた事実です。運動不足を解消し、気づくと健康になってしまっている。おもしろくて健康になれる。おもしろくてシェイプアップもできる。さらには「道なんかどうでもいいけど、これがおもしろくてやめられない」アシュタンガジャンキーと言われる人が続出します。

アシュタンガの道は、「おもしろくてやめられない」ポーズを追いかけるうちに知らず知らずのうちに歩いていることが多いのです。オマケに魅せられて始め、オマケを追い求めて続けるうちに、気づくと経典を読んでいたり、インドに行ったりしているわけです。そして、その経典がおもしろくなって初めて、ヨガとはアーサナでないことに気づくという......。

オマケというと、子どものころ近所の病院に行くと必ず売店でミルキーを買ってもらっていた記憶があります。おとなしくさせておきたい場所ゆえか、すんなり買ってもらえた気がします。でも、私がほしかったのはミルキーではなく、ペコちゃんポコちゃんの赤い箱にモールの取手がついているそのバッグ型の外箱とオマケでした。

いや、そんなノスタルジックな例を出さなくても、大人になってからスヌーピーのキャップほしさに、好きでもないコーラを買い続けたことさえあります。(ちなみにコーラはすべて「キューバリブレ」というカクテルになって消費されました)

アシュタンガヨガのポーズは、まさにそのオマケのようなもの。見た目に惹かれ、ポーズにはまり、取り組む面白さの虜になり、オマケのコレクションさえ始めてしまうのです。

たかがオマケ、されどオマケ。
バックベンドワークショップの準備をしていて、改めてオマケのおもしろさに感心してしまいました。こういったワークショップはある意味邪道ですが、本来の道から外れないで歩いていく分には、道の脇に生えている草を摘みとったり、昆虫や鳥を観察しながら歩くのも気分転換やモチベーションアップになります。

本日のワークショップ参加者は、そういったことを重々承知なさっている面々でした。打てば響くし。

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げんこつ山ではなく、椎骨のつもり


脚を使う練習をたくさん盛り込んだので、筋肉痛注意報が出ております。何しろ大腿死闘筋っていうくらいですから。(いわねーよ)

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大腿四頭筋のかなり弱っている部長.....


もう難易度の高いアーサナを追求するのは卒業した私ですが、アーサナ練習なしではこの先健康を維持できないであろうことは確実です。何もしなかったら、老化の波にさらわれて二度と帰って来られなくなるような気がします。バックベンドは特にアンチエイジングのポーズです。背中が丸くならないように適度に行いたいものです。

何より、健康な身体という土台があって初めて「道」が歩き続けられます。このオマケを大いに有効活用して、元気に道を歩いて行きましょう。

「ニャ」について考える

jñāna というのは知識という意味をもつサンスクリット語です。そもそもがサンスクリット語の音をカタカナで表記するのには限界があるのですが、それはさておき、この語は特に要注意です。日本語で書かれた(翻訳された)文献のほとんどは「ジュニャーナ」「ジニャーナ」と表記してあります。

デーヴァナーガリーでज्ञと記される文字は、アルファベットで書くとjñaと表記されるので「ジュニャ」なのでしょうが、インドでそう発音しているのを聞いたことがありません。マイソールで私が習ったのは「ニャ」という音に近い。おそらくアルファベットでjとした音はかすかな音なのだと思います。ヨーガ・スートラのチャンティングでお手本にしている先生は「ニャ」の前に「ング」のような微妙な音が入るので、それが本来のjña の発音なのかと思うのですが、確かなことはわかりません。

それでいつもこの表記にハテナマークが灯っていたのですが、よく考えるとそれが日本語らしいカナ表記のように思えます。外来語をカナで表記する際の日本的やり方、文字ヅラ重視の日本的表記と考えれば妥当です。「ニャ」だとnyaと同じになってしまうということもあります(だからカナ表記はしたくない)。

ところがインドでも地域によって発音が異なるようで、ヒンディー語を話す地域では「ギャ」と発音するようです。まったくもってさらに複雑です。でも、権威ある日本の学者は「ギャ」は間違いで「ジュニャ」が正しいと主張されています。学会のヒエラルキーに組み込まれている先生方はもちろん、インドでサンスクリットを学んだことはない翻訳者が「ジュニャ」と表記するのは当然のことです。そこに組み込まれてない日本ヴェーダーンタ協会発行の本には、jñāna のことを「ギャーナ」と表記してありました。

CHAZENで読んでいる岩波文庫の「バガヴァッド・ギーター」は「ジュニャ」という表記ですが、あえてそれを「ニャ」と読んでいます。CHAZENはアシュタンガヨガをベースにしているので、「ギャ」ではなくマイソール地方の「ニャ」。そして、ヨーガ・スートラではサンスクリットのチャンティングをしますから、リアルに近い発音で。ニャのほうが音としてもかわいいしニャ。

ずいぶんオタクな話になってしまいましたが、ヨガの経典を読む人は心に留めておいてください。


さて、先日のギータークラスでは、ヨーガ・スートラを理解するのに重要なサーンキヤ二元論の萌芽となる考え方、見るものと見られるものについて話をしました(ここにニャが出てくる)。この部分、初めての人は脳みそがフリーズしてまぶたが閉じるか、めっちゃハマるかのどちらかです。ただ、毎年ここを読むころには参加者が淘汰されているので、難しくても挫折するポイントではなく、むしろ次につながるためのよい刺激になっている気がします。今タームはハマる率が高かったので、スートラクラスにも出るように勧めたらさっそく申し込みが......。座学がますます楽しくなっております。

次のヨーガ・スートラクラスは、印哲風味満載です。いつもは「インド思想」という感じですが、ここはガチで「インド哲学」。でも安心してください。一介のヨガ教師がそんな大それたことを話したりしません。いつものように、インドの哲人たちがどんな風に考えたかを紹介しつつ、プラクティスや日常にからめて話します。難しい理論自体は理解できなくてもまったく支障はありません。わからなくても道は啓けます。道(方法)は数多くあるので、自分に合う道を歩けばいいのです。

CHAZEN的な王道について言うと、こんな感じに上っていきます。
アシュタンガヨガ(マイソール)→ギータークラス→スートラクラス

次回、ガチのインド哲学的スートラクラスは27日です。ただいま準備の関係でご予約が必要となっております。前日の午前中までにお申し込みください。また、日曜祝日のマイソールに空きがあることもありますので、座学の前にドロップインでのマイソール参加もご予約を受け付けております。

www.chazenyoga.com


夏の間の山ボケからようやくインド思想モードにスイッチが切り替わり、今回の分校滞在にもお勉強道具を持ち込んでいますが、予報に反してお天気がいい......。外に出たいわ、本は読みたいわ。けど、なぜかニャについて考えているムーンデイの朝。お山はすっかり秋の気配です。

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どんぐりさん......

超能力レベルアップ

秋の味覚が楽しみな季節になってきた。
軽井沢の発地市庭では信州産の葡萄がとてもおいしそうだったけど、まだまだ庶民にはお高くて指をくわえながら素通りしていた。そのせいか、本日のギータークラスのおやつを考えたときにふと「シャインマスカット!」という答えが降りてきた。

要は「シャインマスカット食べたいが、自分用にはぜいたく。けど、ギーターおやつとして食べるならぜいたくではない」ということ。言うなれば我欲を満たすための大義名分ができたわけだ。で、昨日いそいそと買いに行ったら、シャインマスカットとナガノパープルが特売で、いちばん目立つところにでーんと並んでいた。すごいタイミングだわ〜。


そんな今朝、マイソールクラスに来た某丈からシャインマスカット的高級ぶどうの大きな房を2つもいただいた。

わ、あんな特売のぶどう買うんじゃなかった。
おせんべいでも買ってくればよかったな。
座学の前にお茶してくる人に頼んで買ってきてもらおうか。

と考えた5分後くらいにきた人から、大きな箱に入ったおせんべいをいただいた。

マジか〜。

何年か前にもシャインマスカット引き寄せたことあった。その昔はうなぎパイを引き寄せたこともあった。けど、1回につき1アイテムだった。

私の超能力、とうとう2アイテム引き寄せられるまでにアップした?
そろそろ水の上を歩けそうだ。


さて、ギーターの参加者が続々集まってきたころ、今日のクラスには参加しない某嬢がふらりとやってきた。「今朝、届いたんで持ってきました」と差し出した紙袋の中には、私が買ってきた特売シャインマスカットの倍くらいある大きなシャインマスカットが......。


笑いがこみ上げた。

2アイテムのうち1アイテムはダブルで引き寄せたよ。

ヤバイわ〜、ちゃみこさん。

そろそろ解脱するかもしれない......。

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まだまだ噛む力は十分

虹の橋を渡る

あれは7月。
都知事選の投票を終えて歩いていたら、かつての犬の朝練仲間ウラン嬢のお父さんとお母さんにばったり会った。CHAZENを始めてからは朝行くことができずご無沙汰だったのだけれど、ウラン嬢をはじめ、シューと同じ年代だった仲間たちはみんな虹の橋を渡ってしまったとのこと。

「虹の橋を渡る」という表現は、犬猫飼いの間ではだいぶ前から定着している。人間の死に関してはまったくセンチメンタルに考えない私であるが、犬猫に対しては、肉体を離れたあとに虹の橋の向こうにあるすてきな楽園で楽しく暮らしていてほしいという矛盾した気持ちがある。

今やペットは自分の子と同様、あるいはそれよりも大きな存在だったりする。人間の家族が亡くなった場合はただ泣いてもいられない。儀礼的なこと事務的なことに加え、相続など利害までからむので複雑だが、ペットの場合は純粋にいないことへの悲しみばかりになる。人間の子どもはたいてい自分よりは長生きするけれど、ペットは自分より後に生まれたものを先に送るという、人間であれば逆縁だ。

それは最初からわかっていることで、飼い主たちはそれなりに覚悟をしながら犬猫を飼うのであるけれど、どんなに頭で(理性で)わかっていてもこの悲しみや寂しさはついて回る。そんなときにできるのはただ思いっきり悲しむこと、涙を出すことしかない。そして、今はきっと虹の橋の向こうで楽しくやっているのだと思うことで自分の気持ちを納得させるしかない。そういう願いを込めて虹の橋を渡るって言うのだろうな。


それはさておき。
今やCHAZENになくてはならない存在であるアシスタント嬢の愛猫すももが、18年の猫としての存在を終えて虹の橋を渡った。

報せを聞いて部長と一緒に弔問すると、すももデラックスと言われるほどに大きかった体はすっかり小さくなったしまっていたけれど、毛並みがきれいで、お顔もかわいくて、なんだか小さい子猫のようだった。

翌日、すももがお骨になって帰ってきたあと、今度はCHAZEN生からのお花を届けに行った。

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CHAZEN生への業務連絡:左下のお花です


すももは今ごろきっと、楽しく猫じゃらしで遊んでいるんだろうなあ。虹の橋の向こうでね。

(CHAZEN生への業務連絡2)お花のアレンジを待っている間、すももの身代わりをみつけたのでそれも一緒に贈りました。

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ちっちゃいすもも=こもも


ところで、最初の弔問から帰ってきたら、少し前にお母さまを亡くされた某嬢からカードが届いていた。「黄金の魚」という谷川俊太郎さんの詩が綴られているカード。谷川さんらしい詩がこころにぴったりおさまった。

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ナイスセレクト


ちなみにシュー太郎氏は夏のお山生活でますます元気になり300gの増量。食欲と女好きは衰えることを知らず、虹の橋を渡るのはもうしばらく先の予定です。

いつだっていい塩梅

8月の終わりごろ、ブログを書き始めたものの「お前の話はつまらん!」と思って途中でやめて、でも一応保存しておいたことがあった。いつも、そのときの気持ちを旬のまま書こうと思っているので、保存してもだいたいは破棄するのだけど、その後暗示的なことがあったので拾ってきたのが以下。

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CHAZENの新学期がいい塩梅です。
平日マイソールは予約なしでも混み合うことなく、スペースが埋まりそうになるところで誰かが上がるという、ちょうどよい加減なのです。5時半オープンなど、コロナがなければ考えられませんでした。

いや、5時半オープン以前に練習生の数がだいぶ少なくなったからなのですが、コロナ後の定員にぴったりの人数になったこと自体がいい塩梅なのだと思います。毎朝、CHAZENを必要としている人がこんなに存在するのかと驚き、またそれをありがたく思います。

CHAZENを始めた当初、それまで公民館でやっていたマイソールに来ていた人たちが少しずつ離れていったことがつらかった時期がありました。人はなくしたもの、過ぎたこと、足りないものについて思いを巡らせては、何がいけなかったのかとか、あのときああしていれば......などと考えるものです。毎日やるのがアシュタンガだということに気づいてCHAZENをスタートしたので、それまでの「仮」マイソールから変化するために避けては通れない痛みでしたが、それまで楽しくやっていただけに、詮ないことをウダウダと考えてばかりいました。

そんなある日、ハッと気づいたのです。「いま練習に来ている人たちに目を向けよ」と。いなくなった人ではなく、いま練習に来ている人のことを考えるのが私の役目だと。

いつも思うのですが、私がヨガを通じて力になれることは「CHAZENに来てくれる人」に対してのみ可能です。たとえこの人をなんとかしてあげたいと思っても、その人が自らやる気になってCHAZENの門を叩いてくれない限り、私には何もできないのですよね。だから、CHAZEN学園に入学したいという人に対しては、手放しで歓迎しております。

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ここまでで止まったのは、つまらないというよりは、先の見えない現状でこういうことを綴る虚しさを感じたからかもしれない。この夏から、考えるとブログが書けなくなる状態が続いている。何か書いても、何か違うような気がして途中で止まってしまったり、落とし所が見つからなくなったり。

ところが、9月に入ってから神社に置いてある今月の「生命の言葉」を見たら、これだった。

失ったものを数えるな
残されたものを最大限に活かせ 
(ルートヴィヒ・グットマン)


そういえば、これはヨガ以前にポジティブシンキングの銘として頭に刻まれていた言葉だ。今はポジティブシンキングという言葉自体を俗なる思想と敬遠している私ではあるが、なんだか街で古い友達に偶然出会ったような懐かしさをおぼえた。「失ったものを数えるな」というのは「過ぎたことを思い煩うな。今ここにあるものを見よ」というヨガ的思想だ。

それでも、まだブログの続きを書こうとは思わなかったのだけど、今日読んでいた本の中にこの言葉を見つけた。

馬を水場に連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない。
You can take a horse to the water, but you can't make him drink.

おお、CHAZENに来てくれないとヨガを教えることができないってやつだ。喉が乾いていない馬に水を飲ませることはできないのと同様、ヨガの必要性を感じない人にいくら教えてもアシュタンガはキツくてつらいと思うだけだよね。

水を飲みたい馬はぜひCHAZENに来てください。(ちがうやろ)

あともうひとつ「その場にふさわしい人数が集まる」って星覚さんが言ってたなと思い出した。

いつだっていろいろがうまく配分されているんだと思う。誰が悪いとか、何がいけないとか考える必要なんてないんだよね。考えるとしたら、どうやったらもっとイイカンジになるかってこと。それもたぶん、ふだんやることやってたらいらないさね。

24時間365日の修行を続けるだけよ。



こないだの陰ヨガにて。最後のシャヴァーサナでシャバを離れゆくみなさん。

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ぐーすかぴー

リスペクト

犬に関心のないシューさんだけど、子どものころからなぜか大きい犬には興味をもち、親しげに近寄って行ったりするところがある。

先日イングリッシュセッターのS嬢とA丈宅にお邪魔したときのこと。
やっぱりすんすんと匂いを嗅ぎに行くシュー、そしてそれをあたたかく見守るA丈。

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えっと、この匂いは......


ひとしきりご挨拶したら、イングリッシュセッターのS嬢とA丈がそろってサンルームのフロアに横になった。大型犬は落ち着いていていいな。

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ほぼ同時にコロっと寝たのがかわいかったー


はじめは持参したベッドにシューを入れておいたのだけど、きっと探索したいのでは?と気遣っていただいた。今や自分の家でも常に探索を続けているシューさんなので、もちろんひとんちは気になって仕方ない。そこらじゅうをクンクンしながら回っていたら、A丈がすっと立ち上がってどこかへ行ってしまった。

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くんくんくんくん......


シューが徘徊しているのが気になったのかなと思ったら、小さくてもシューは先輩なので敬意を払って場所を譲ってくれたのだそう。こんな目の見えない、体の小さなおじいさん犬にも、ちゃんと礼を尽くしてくれるのね。すばらしいわー。オトナだわー。愛玩犬である小型犬には見られない行動に感心した。

人とのつきあい方、コミュニケーションは難しいと言われるけれど、誠意をもって接している限り、そうそうひどいトラブルにはならないと思っている。誠意というのは相手を重んじることだと思う。

逆に、言葉遣いはていねいでも相手を尊重する態度がない(心がこもっていない)とあまりいい気持ちはしないものだ。マシーンのような笑顔とか、うわべだけの褒め言葉とか、ゾッとすることがある。

それは相手のことを思っているようでいて、実はただ相手の「反応」だけを気にしているからなのだと思う。すなわち<私>に返ってくる反応が怖いのだ。自分を殺して生きているような人は、エゴが薄いようでいて実は濃いと思っている。謙虚そうにふるまうのは自分を守るため。相手を自分と同様に考えられたら、必ずしも笑顔にならない場合もあるし、耳に心地よい言葉でなくなることもある。

反応を気にするのではなく、自然にリスペクトできれば関係も自然にスムーズになる。嫌いと思っている相手でも、何かしら相手の身になって考えられればトラブルにはなりにくい。

それもこれもすべて<私>問題だ。<私>が薄くなるほどに他者への思いやりが生まれる。ちょっとした犬の行動に、そんなことを考えた。


ところで、シューがベッドから落ちないように気をつけるので安眠できないこともあり、夏の間は1階の畳スペースで寝ていたのだけど、ふと思い立ってゲストルームのベッドを2つ並べて寝てみた。ら、こんなことになっていた。

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堂々のセンターポジション確保


リスペクトして場所を譲ったわけではないのですが〜。
枕の位置からわかるとおり、できるだけ端っこで寝ている私なのですが〜。