居住まいを正す
寒い年の瀬です。かき氷現象で頭が痛い。
快晴で空気が冷たいと気が引き締まるようで気持ちよいのですが、換気のために窓を開けると寒気が入ってきて凍死しそうです。
気づけば年末年始ウィークも残り2日......そして、もう今年が終わろうとしています。今年についてはもはやここで述べるまでもなく、まだ渦中であり、ほんの少しの先のことさえわかりませんが、今日も無事にマイソールの練習ができたことに感謝するのみです。
今日ふと思い立って久しぶりに墨を擦り、新年に掲げる言葉を書いてみました。相変わらずのチャッ筆ではありますが、墨をすって文字をしたためるという行いは瞑想的・内観的で年末にふさわしいように思います。
年が変わるというだけで、以前から連続した毎日なのですが、節目に姿勢を正して来し方行く末を思うことはサマスティティと同じようなものかもしれません。
ともあれ、本年もこのブログをお読みいただいたことに感謝申し上げます。どうぞみなさまよいお年をお迎えください。
エゴを育てるのか殺すのか
年末年始のマイソールが始まった。
本日から年末までの3日間は、普段の平日マイソールの時間とほとんど同じ時間帯で、違うのは2部入れ替えで時間制限があること。
マイソールクラスのいいところは、好きな時間に来て好きなだけ練習ができることだけど、時にはきっちり決められた時間の中で練習することも大事。急いで終わらせようと呼吸が浅くなるのはよくないけれど、お金を払っているのだから当然の権利とばかり長すぎる練習をするのも考えものだ。
禅の世界から見ると、アシュタンガヨガはエゴを育てやすい。
自分の練習、自分の向上、自分の時間......と<自分>のことばかり考えるようになるからだ。アシュタンギは、自分のポーズがいかにしたら上達するか、自分の身体がいかにしたら柔らかくなったり、軽くなったりするかにフォーカスしすぎる傾向がある。エゴイストがさらにエゴイスト化しやすい。
私がそうだった。
たとえばカランダバーサナがうまくいかないと何回も納得いくまでやり直したりしていたのだけれど、今思うとエゴ全開だったなと赤面する。むしろ、そういう努力や試みこそが大事だと勘違いしていた(それも大事ではある)。
ある時、ドミニク先生がグルジのオールドシャーラーについて話す中で「アーサナを何回もやり直すものじゃない。なぜなら外で待っている人がいるのだ」ということを言われていてハッとした。
もちろん、場所が空くのを待っている人はいなかったからたしなめられることも自分で気づくこともなかったのだけれど、そもそも、アーサナを目的にしていたこと自体が間違いだと気づいてなかった。それじゃあシャバの競争世界の延長でしかないということがわかっていなかった。
禅の世界を知るとアシュタンギのエゴがよく見えるようになる。
たとえば禅寺で理不尽(と思われる)に怒鳴られたりするのは、実はこのエゴをやっつけてくれているのだ。怒鳴られてコンニャロと思うそのエゴをコテンパンにされて初めて、それがエゴだと気づくというシステムなのだ(うまく機能するかはさておき)。
禅に出会わなかったら、腕が動かなくならなかったら、私はどこまで<自分>に執着していたのだろう。
発作が怖くてずっと丸洗いできなかったのだけど、冷え込みが緩んだ先日ようやく洗髪してふわふわちゃんになった部長。顔の毛を切ろうとすると激しく抵抗されるのでボサボサはそのままだけどね。
白いクリスマス
修行は盆暮れ正月関係なしだから、クリスマスなんてさらに関係ないのがCHAZEN。
だけど、今年はなんとなくキラッとしたもの飾りたくなって、ベランダの植物にオーナメントをぶら下げたりしてみた。練習する場所は、できるだけ簡素で整っていて、ドリシュティを奪われるようなものがないほうがいいけど、今はほんの少し色気があってもいいような気がしたの。
私が練習生としてマイソールに通っていたころは、クリスマスの朝に練習に来るなんて......(すごい、あるいはかわいそう)、という雰囲気が多分にあったけれど、今のCHAZENではそんなこと考えもしない。アシュタンギにとっては、ただのいつもの朝だから。むしろ、クリスマスディナーとか翌朝の練習に障るので遠慮したいハズ。
クリスマスディナーというか、ごちそう全般が大好きだった私。今だって好きは好きだけど、魅力の度合いがぜんぜん違うよね。その享楽がいかに儚くて「苦」を生み出すものであるかを知ってしまったからだと思う。このへんが肚に落ちるかどうかが、インド思想を理解する分かれ目のような気がする。
とあるインド学の先生がおっしゃっていた。「若い学生にはこれが理解できない。『苦があるから楽があるんじゃないですか』なんて言われてしまう......」と。そりゃそうだろう。若い人にはわからないだろうし、わからなくてもいい気がする。頭で理解するよりも、散々苦労してから肌で理解したほうが身につくものだ。学生にとっての苦は受験とか単位とか就職程度のモノだろうしね。若いうちはとにかくなんでも経験したほうがいい。全部がのちのちの栄養になる。
さて、我が家のクリスマスイヴはいつもとかわりばえなし。夕方、お山でお世話になっている人とメールのやりとりをしていて、軽井沢はホワイトクリスマスかなーなどと、うっとりロマンチックな絵を想像していた。ただ、ヒーターに近づきすぎていたせいか喉が渇いたので、こないだ買って冷蔵庫に入れておいた白い泡泡のお薬を飲むことにした。泡泡といっても、クリスマス的なアレではなく、お米のつぶつぶが入っているアレね。
しかし、妄想のため頭がボーッとしたまま、何気なく瓶を逆さにしてから開栓......。
はい、当然シュワ〜〜〜〜〜っ!!となりますわな。
泡泡がキャップから漏れて来るのをみて、自分がアワアワ。
もったいない!
と一気に蓋を開けたところ、
パーン!
お薬の半分近くが飛び出して、キッチン中が真っ白になった。白いお米のつぶつぶがまるで雪のようで......。
東京でホワイトクリスマスかよっ。
泣きながら掃除した。
イベントを作らなくても、予期せぬ出来事によって毎日はエキサイティングになる(インド思想でもなんでもないか.....)。
お口直しに、月曜のマイソールが始まったあと、平社員の膝の上でお休みになっていた部長をどうぞ。
ホメオパシーの出番
先日、発作まではいかないけれど、シューが一晩中眠れないことがあった。これはいよいよ獣医さんに診てもらうしかないかと思ったとき、おそらく以下のような展開になるであろうことを想定した。
- 発作の状況などを伝える
- 検査する
- 数値を見て病名がつく
- 一定期間薬を飲んで再び検査する
- 以上を繰り返す
17歳の犬なのだから、検査をしたら悪いところはいくらだって出てくるだろう。人間と同じで、それに対して診断が下され、治療のための薬が処方される。これは至極真っ当なことであって、たいていの人ならだからこそ安心すると思う。
しかし、私には引っかかるのだ。
以前クッシング症候群と診断されたが、「病気になった」というより「病名が付けられた」だけなのではないかということ。私の見立てでは、あれは過度のストレスによる一時的な症状だったように思えるからだ。だから言われたとおりに薬を飲まなくても治った。ホメオパシーで崩れていたバランスが調ったのだと思う。
「病は気から」というけれど、犬の病も気から起こっているのではないか。
それで、獣医さんに行くのは次の段階でいいなと判断し、まずはホメオパシーを試してみることにした。
ところで、ぐぐったりするとすぐにわかるけれど、ホメオパシーは日本の医学界からはそうとうな鼻つまみ者にされている。昨今話題になっている日本学術会議など「全面否定」しているのだ。なぜそこまで全面的に否定するのだろうと思うが、普通の医者は上記のような数値に基づいてしか診断できないからだろうと想像してしまう。だって、3分診療と言われる中で医者は人なんて見てないもの。物理的に人を見る時間がないから、人を見れなくなってしまったのだろうと思うけどね。で数値を見るしかないから、ヨガでいう直感力はどんどん退化していき、ますます人は見られなくなる。
(お医者さんが悪いわけではありませんし、その働きぶりには感謝しております)
この方法はわかりやすい病気には極めて効率がよく、治療効果も高い。けれども、原因不明の、因果関係が明確でない、「気」が多く関係する病気には、マトはずれになることが多いように思われる。
私はホメオパシーについてきちんと学んだことはないけれど、遠巻きに見てきた結果、ホメオパシーをどういう場面で使うべきかが、自分なりに決まってきたような気がする。そのひとつが「因果関係が明確でない」ものなのだ。
たとえば、私は薬を絶対使わないなどとは思っていなくて、それが効果的と判断すれば抗生剤やステロイドだって使うこともある。でも、痙攣の発作は神経系の異常だから、薬を飲んでも副作用のリスクのほうが高くなる可能性があるような気がした。だとしたらホメオパシーを試す価値大アリだ。
それで動物のホメオパシーについて調べて、当てはまりそうなレメディをピックアップし、ホメオパスの先生に在庫を確認したのだった。
そうしたら、シューのことをよくご存知の先生が「ちょっと違うような気がする」と別のレメディ「パルサティラ」を勧めてくださった。パルサティラは使ったことはないけれど、基本のセルフケアレメディのひとつ。で、さっそく手持ちの本を開いてパルサティラの項目を見たら、あまりにもシューにぴったりなので大笑いした。人間用の本ですけどね。
Pulsatilla(パルサティラ) 日本での一般名称:セイヨウオキナグサ
適している心の状態:
誰かにかまってもらいたくなる状態に適しています。ささいなことで泣いたり、嫉妬したりしますが、他人からの慰めや励ましで、すぐに回復します。気分が変わりやすいのも特徴です。
- 見捨てられた感じがして不安になる
- つねに人にかまってほしい、甘えたい
- すぐに泣くが、泣いたあとは回復する
- 愛情や励ましを受けると、すぐに立ち直る
- 気が変わりやすい
シューの根本レメディかもしれないww
ホメオパシーでは数値ではなく人(犬)を見て判断するのです。
おもしろいでしょ?
大笑いしてから気づいたのだけど、発作が出たころ私ずっと忙しすぎて必死だったから、かまってあげてなかったなと。
ソレだ。
11月の終わりにお山に行ったときも、ずっと放置されていて、最後帰り際に申し訳程度に近所を歩いただけだったな。
ここ数年、シューが寂しがらないようにと、インドはもちろん国内も諦めて、一泊たりとも留守にはしないできた。だけど、感覚器官が衰えた今のシューにとっては、私が家に居るのかどうかは、触れるくらい近くにいない限りわからないのかもしれない。つまり、私がシューにかまわずに何か仕事に没頭しているときは、シューにとって留守番と同じようなものなんだろうな。
ごめんよ、シュー。
そういうことに気づけただけでも、ホメオパシーにしてよかったと思う。
病気になるのは何かバランスを崩すような原因があるからなのだ。それに気づかないまま、生活習慣を見直すこともなく、検査して数値に基づいた副作用の強い薬を飲んで、というのが現代の常識だとしたら、私はやっぱり非常識な人間のままでいたい。(健康診断を拒否し続けて10年以上だしね)
この冬は、気持ち悪いくらいシューにベッタリしてみようかなー。なんならシューちゃん依存症かよってくらいに。
でっきるかな〜。
でもね、最近はちょっとした外出がしやすいのだ。
というのも、排泄を済ませ、お昼ご飯を食べ、あったかくしていれば、3時間くらいは昼寝しているから出かけたことに気づかない。
帰ってきてもまだ寝ているので、死んでるんじゃないかと思ったりする。
みんな元気
今年はコロナ予防で手洗いうがいを徹底しているせいか、CHAZENでは風邪を引く人が少ないような気がする。それどころか、私の見ている(練習に来ている人)に関してはみんな心身ともにすこぶる元気だ。
昨年の年末年始は8時スタートにして毎朝余裕で坐禅とフルインターミディエイトが練習できたので、今年ものんびりなのを期待していたら、すごい勢いで予約枠がぶっちぎられて時間を増やすことになり、その夢は打ち砕かれた。おかしいな。今年は別料金にしたので、わずかな人しか来ないと思っていたのにな。
なんとなくだけど、CHAZEN生は、強く、たくましく、健全に、コロナの潜む海を泳いでいるような気がする。今はまだなくても、今後感染する人が出るかもしれない。それでも、なんだかそう悪い方向にはいかないように思える。気を緩めてはいけないけれど、CHAZEN生を見ていると不安が感じられない。
なんでだろう。
なんのエビデンスもないただの印象で言えば、プラクティスに裏打ちされた自然免疫が感染を寄せ付けないようなイメージがある。プラクティスというのはもちろんアシュタンガヨガという肉体的精神的な鍛錬のことだけれど、それ以上にインド思想という強靭なバックがついているように感じられるんだよね。仏像の光背みたいに。
その光背がバリアみたいになって感染を防いでいるような......。
ここまでいくとただの妄想でしかないけれど、それくらい練習生が頼もしい存在であることは間違いない。そもそも、私たちが重要視しているエネルギーは数値化できるようなものじゃないし、数値でなど測りたくない問題だから、発言がアヤシクても差し支えはあるまい。
光背は消えかかっているけれど、後ろ姿がかわいい部長さん。
練習生と濃厚接触したがって、クークー、ワンワンと主張し、徘徊し、おやつをもらうのを生きがいに、まだまだがんばるつもりだ。
玄関が寒くなるのでヒーター付きで置いといたら、某嬢が書き込み付きの写真を送ってくれた。
ちなみに、食欲はみじんも衰えておらず、日に三度の食事を、三日食べものにありつけていないオオカミのような勢いでむさぼり食らっております。(私も)
タダ券で再び仏様に会いに行く
6月に行ったときもらったタダ券の期限が12月25日だったので、トーハク(国立博物館)に行ってきた。いつ行こうかと楽しみにしていたのが、いつ行けるのかわからなくなり、期限は年内いっぱいだと勘違いしていたが、駆け込みセーフ。
前回から半年で第3波がやってきて、またしても館内は(というか上野の駅なんかも)ガランとしており、ほぼ貸し切りの状態で鑑賞することができた。これでSPとかついてたら皇族とか海外からの要人が訪問されるときのようだ。
まずは前回クローズしていたアジア館へ。
仏教はインドからアジア各国に伝わっていったけれど、各国で仏様の顔が見事に異なるのがたいへん興味深い。私たちはお釈迦様の顔を日本人的にイメージしがちだけれど、ホンモノのお釈迦様はきっと彫りが深いインド顔だったはず。
ガンダーラの仏像はイケメンだもの。シッダッタはむしろジーザスに近いお顔だったかも。
日本の仏像は木像が圧倒的に多い気がするけれど、インドや西域では石像が中心になる。
もともとギリシャ・ローマ文明のレリーフなどを多く見てきたので、興味の対象がギリシャローマからインドに移ったその変遷を見るようで、個人的にたいへん興味深いところ。
インドの仏像は、なんだかハヌマーン顔な気がするし。
広く民衆に親しまれる仏像は、土着の人や神様の顔をしているものなのだ。仏教が伝わったその土地でどのように信仰されていたのかを想像するとたまらなく好奇心が湧いてくる。
中国の仏頭。
中国まで来ると、私たちに馴染みのある仏像になってくる。この仏様**ちゃんに似ている!てきな......。
十一面観音はここからほぼそのまんま伝わったのかしら?というくらい親しみのあるお姿。
前回たまたま展示されていて、ミニチュア仏像を購入するきっかけになった文殊菩薩などはガラッと展示替えされていたし、うっかり一目惚れして衝動買いしてしまった半跏思惟像がたくさん展示されている法隆寺宝物館はクローズだったけど、国賓並みの貸し切り状態でなんとも贅沢な時間でございました。
イチョウのじゅうたんも日に映えて。
参考までに、前回お目にかかった仏様たち。
と、CHAZENにやってきた仏様たち。
そして、なぜか大英博物館に行きたくなった。
ようやくいつもの師走がやってきた
毎年12月は忙しくないんですよ。
なぜなら世間が忙しいから、ヨガ道場的にはものごとが動かない時期なのです。
天邪鬼系の私は、世間と同調してないことに嬉々として、のんびり社員旅行などしてたのですが、今年の師走前半は世間の年末とは関係ないところでドタバタしておりました。一度にいろんなことが動きすぎました。ひとつが動いたら、付随して他も動く。そんな感じであれもこれもがいっぺんに。
そして今週、秋ごろから始まった動きが見事にすべて完結していくのを見て、派手な仕掛けの舞台が今まさに幕を引こうとしているかのように、嘆息を漏らしております。
コロナ的社会情勢の変化により、自分の暮らしがもっと劇的に変わるように思っていましたが、逆に元の鞘に収まる気配が濃厚です。さらにコンパクトに濃縮されたCHAZENとともに2020年がすぎていこうとしています。
さて一昨日の日曜日はスートラクラスでした。
前夜、疲れ切ってお山から帰ってきたところに再びシューが発作を起こすという事件が重なり、最悪なコンディションで申し訳なかったです。
その代わりに、お茶の時間が豪華でした。
S嬢手作りの焼き菓子2種の中身は......
ここに書いてある「カリン」は分校の庭になっていたものです。そのままでは食べられないけれど、とてもいい香りがするのでCHAZENの玄関に置いておいたら、何人かがカリン酒やジャムにすると持って帰ってくれました。こんな素敵なケーキになって戻ってくるなんて、10倍返しです。
そうそう、今さらデッキにテーブルを出してお茶してみました。
あ、虫はまだいたのです。
12月の軽井沢でブヨに刺されるとは思いませんでしたが、庭で作業していたらいつの間にか刺されていた。おでこのど真ん中でかなり目立ちます。とほほ。この時点ではまさに泣きっ面にブヨ、でした。温暖化で生態系が変わっているのでしょうか。
では、また近いうちに。
(懐かしいフレーズだわ)