CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

今に在ること

先日書いた記事の続編です。読んでない方はこちらからどうぞ。
chazen.hatenablog.com

あれこれ悩んだ若き日の私が最初にとった解決法は「寝てしまう」ことでした。
考えても仕方のないことをとめどなく、際限なく考えてしまうときは、とりあえずその問題は明日考えることにして、さっさと寝るに限るというわけです。これはけっこうな効果をもたらしました。子ども時代に寝つきが悪く不眠気味だった私は、なぜかそれ以来寝つきがよくなり、いやなことがあってもすぐ寝て忘れるようになりました。

でも、問題は依然としてあるんですね。後回しにしているだけで、解決したわけではない。ものごとが順調に進んでいるときはいいけれど、何かうまくいかないことがあると、また同じ問題が浮上してくる。

あるいはそういった問題を、前向きな態度でやっつけることで乗り切るようにしました。「こんなことに負けてはいけない」と、向上心のかたまりとなってさまざまなことにチャレンジしました。がんばれば結果がついてくるし、さらに前向きになる......といった具合でしたが、世の中そうそう努力がすべて報われるわけではありません。報われないときは、がんばった分と同じくらいの虚しさに襲われました。

それなら仕事は生きるための手段と割り切って、飲んだり食べたりして人と交わり、旅行に行き、海や山で遊び、音楽を聴いて、映画を見て......と好きなことに没頭している時間は充実していましたが、それも終わればただの楽しかった時間にすぎません。そしてまた問題は湧き上がってくる。

今までの仕事や遊びは確かに人生を豊かにしてくれましたし、これらがなかったらCHAZENもなかったでしょう。でも、たとえどんなに過去や現在が充実していようとも、モヤモヤした思いや不安は存在するものです。むしろ、充実すればするほど、棚上げされた根本的な問題がのしかかってくるようでした。まるで指名手配されている犯人のように、見つからずにうまく隠れていても指名手配されている事実は変わらず、いつも気が休まらないないのと同じです。

もちろん、楽しいことがいけないわけではありません。でも、インド思想がわかるとその「楽しいこと」の性質が変わってきます。かつての私は楽しみをなんとか作り出そうとがんばっていたのかもしれません。つまり、そう自覚はせずとも、現実から目を背けていたのですね。問題が堂々巡りである理由のひとつは、この逃避行為にありました。

その後ヨガを始めましたが、巧みに演出された平穏さに乗せられてハマった最初のころはヨガを西洋的な価値観でとらえていたように思います。堂々巡りが解消されたのはやはり本物のインドに出会って、思想を知るようになってからです。

そこからまたさらに時間が経過した今改めて思うのは、ヨガも禅もとにかく「今に在る」という行いをするもの、「今、ここで、この時に在る」という実践がとても重要だということです。

このプラクティスは、特にあれこれ考えてしまうタイプの人には効果的な方法です。ヨガでカラダを動かすことはより多くの人にとってより簡単に「今に在る」練習ができます。汗を流した以上の気持ちよさは、この瞑想効果にあります。わかりやすいのです。

さらにそこから静かに坐る練習をするとステージが上がるというのが私の実感です。おおざっぱに言って、普通は坐禅のほうが難しいです。最初はもう雑念だらけで、考えることをやめようと思えば思うほど次々と思考が襲ってきたりもしますが、それでもずっと続けていると、すっと穏やかになれる習慣ができてきます。時にまた激しくうるさかったり、特定の境地に至ることもありますが、ただ「今に在る」だけでいいのです。ただ続けるだけです。

ゴールはないのです。

これがほとんどの人にとっては理解し難いことなんですね。目的、目標がないことに時間を費やすほど暇ではないし、夢中にもなりにくい。けれども、それが解決の方法だったように思えます。つまり、

答えはないのです。

なぜなら、ゴールを目指したり、明確な答えを得ようとすることが自分を縛るからです。


あ、ここまで読んでくれた人を今思いっきりガッカリさせた......?
次回はヨガや禅の作用についてもう少し具体的に書いてみます。


笑う犬......