CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

なくても大丈夫

先週の茶禅会で提案し、本日、久しぶりに粥坐の会を開催しました。坐禅の前にはみんなそろって永平寺式の雑巾掛けを。これをやってから坐ると気分が違うのです。そして、みんなでやるとあっと言う間にきれいになります。

坐禅のあとに、これも永平寺式の作法で粥坐。
給仕の仕方、テーブルの配置など、次回の課題はありますが、今日は私の典座(調理)の失敗もなく、初めての人も作法にすっとなじんで、つつがなく終了。

「お粥の器を両手で持って、食べたらその器を置いて、今度は漬物の器を両手で持って、食べたら器を置いて......という作法が、アシュタンガでひとつのポーズごとにサマスティティヒに戻るのに似ている」という感想があり、なるほどと思いました。そういえば、かつてこんなことを書きましたね。

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最後に『正法眼蔵随聞記』の購読。今日読んだところは、京都建仁寺栄西禅師が、一家が飢え死にしそうだと助けを求めてきた人に、仏像の光背にすべくとってあった銅を持たせてやったという話。ここでは、衆生を救うことが仏弟子の本分だから、仏像ができなくても仏様はお喜びになるであろうという主旨です。随聞記にはよく栄西禅師の話が出てきます。別のところでは、自分たちの食べるものすらないときでも、まず衆生を救いなさいというものでした。

自分たちの食べるお米すら十分にないときに、困っていますと言ってきた人にそれを差し出せるか。というようなことをみんなで考えてみました。私などはよく、物惜しみをしている自分に気づきますから、栄西禅師のようなことはとてもできないだろうと想像できます。

それから災害についての話も。
北海道の地震のあと、CHAZENのキッチンの吊り戸棚に入っていた陶器類のほとんどを片付けました。まだ残ってはいるのですが、頭の上から陶器類が落ちてくるリスク、割れて破片が飛び散るリスクを最小限にしておくことにしました。ティーポットや茶碗などは引き出しの下段にしまいましたが、多くの食器を寄付する形で処分しました。

ちょうど昨日花豆の甘露煮をいただいていたので、粥坐のとき別菜皿として出そうと思ったのですが、そう言えば小皿類もみーんな処分してしまったのでした。これからはCHAZENで何かを食べるときはマイ皿マイカップ持参にすればいいかなと。

停電に関しては、電気に頼る生活を見直すことがひとつの災害対策になるかと思います。先日書いたあのアフロの元朝日記者の稲垣さんは、停電になってもほとんど困らないでしょうからね。

そして、ヨガ人のみなさまにおすすめしたいことがあります。それは断食を経験して(できれば定期的に)、数日くらい食べなくても大丈夫だということを実感しておくことです。非常食を用意しておいても、状況によっては使えないかもしれない。それよりも、食べなくても大丈夫とわかっていたら、どんなときでも安心です。

災害だけでなく、すべての非常時は精神的に動揺してあわてたり、不安にかられて行動しがち。そんなときに「**がないと困る」と思えば、余計に平常心が失われます。食べなくても大丈夫、**がなくても大丈夫ということが経験上わかっていれば、落ち着いて過ごすことができます。心に余裕があれば、まず小さな子どもや、お年寄り、病人を気遣うことができます。栄西禅師のようにはなれなくても、自分のもっているものを分け与えることができるでしょう。

日常ならば、理性で(頭で)善い行いをすることが可能ですが、非常時は難しいかもしれません。あるいは、非常時ゆえに神経が昂ぶって火事場の馬鹿力的なパワーが出るかもしれませんが、それは長く続きませんし、却って消耗して逆効果になることもあるでしょう。

瞑想で心を平常レベルに保つことも含め、非常時に力を発揮するためには、日頃から当たり前のようにそういう生活をする必要があります。そんな力を発揮するチャンスが来ないことを祈りますが、今年のように全国各地で頻繁に災害があると、何もないことのほうが奇跡とも言えます。

電気だって、食べ物だって、当座なくてもぜんぜん平気! と自分自身のカラダで理解していたら、強力な非常持ち出しセットになると思いますよ。


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粥坐中、みかんハウスで待機させられる部長