CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

アシュタンガヨガは「目覚め」を遠ざける?

年内最後のヨーガ・スートラクラス。
本日学んだスートラが、「なんじゃそりゃ???」的な、解説なしに理解できたらもう参加しなくていいレベルの難しさであり、目が半開きになってきた人も......。

が、難所を過ぎて、要諦部分にさしかかるや、人々は眠気より覚めてサーンキヤのワンダーランドへと誘われたのであった。わかればわかるほどに面白味が増す不思議の世界。

ハイライトは毎度おなじみ気づきのシェアタイム。
プルシャくんとブッディさんのくっつきについて、それぞれの個性豊かな理解やたとえの傑作が続出した。たとえが出るようになるのは、各人なりの理解の仕方でとらえられるようになったという証。

難しい理論を覚えたりする必要はないけれど、この大切なところが腑に落ちると、ヨガ実践の意味や瞑想の目指すところがわかってくる。その指針にしたがってアシュタンガヨガの練習をしたり、坐禅や瞑想をすれば、道に迷わずに歩いていけるはず。

アシュタンガヨガはアーサナの実践が中心になるので、ポーズがうまくできるようになることが目的だと勘違いしている人が多い。そうではないと聞かされてもポーズの上達にとらわれている人が大多数だと言ってもいいと思う。それは誰もが通る道だと思うし、ごく自然なことであるばかりか、むしろそのために練習を継続することができるのだから、単なる道具といえどもおろそかにすべきではない。

ただし、この道具があまりにも楽しくなってしまうと、本来の目的である「自由」からは遠ざかるかもしれない。アシュタンガに限らずすべての修行に言えることだけれど、軽く楽しいうちはいいけれど、もっともっとという気持ちが暴走すると、迷路にはまって一体なんのために練習しているのか、最終的にどこへ向かうのかがまったくわからなくなってしまう。

しかも、そういう人は自分が迷っていること自体がわかっていない。ただ、欲望の赴くままに練習を続けているので自分では正しいことをしていると思っているのかもしれない。シャバの延長線上で、まるで会社で評価されるようにポーズの評価を気にしたり、先生にアピールしたり、ヨガとは逆方向へ走り出す。

オソロシイことに、これは初心者あるあるの話ではなくて、長く続けているアシュタンギあるあるなのだ。何かから逃れるようにアシュタンガに入れ込んでそこに埋没し、虚構の自分を作り上げてそこにしばられたり。

たぶんアシュタンガヨガは魅力が多すぎるのだと思う。
がんばったら能力が上がって、人からも評価されるという魅力がね。

それが落とし穴なんだなあ。そのシャバのがんばりを持ち込むことがさ。


アシュタンガは「行」の入り口としては最高にすぐれたシステムだと思っているけれど、「目覚め」にたどりつくには弱いというか不十分なのかもしれない。

いや、そもそも目覚めようと思って練習していないだけの話か?
考えだすとキリがないけど、某嬢がシェアしてくれた「楽しいと思う気持ちも(引きずらないで)そこで終わらせる」という視点をもっていれば、溺れてしまうことはないだろう。

インド思想を学んでいると、日常の中でこういう気づきが得られるようになるんですね。すばらしい。


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オレも参加してたのに......

ティータイムにはCHAZEN米の一口ごはん、伊東みやげの金目鯛せんべい、京都みやげの焼麩せんべいと豪華だったのに、どれもシェアしてもらえず、みなさんの帰り際に嫌がらせPをなさった部長。

目覚めろ!