CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

私的リトリート

今回の台風でアーユルヴェーダなリトリートはキャンセル。
午前中早い新幹線で無事たどり着ければ......と考えていたのだけれど、台風の威力は予想を上回るものであった。

森の家が停電に見舞われたのは、18時すぎ。
めまぐるしく変わる雨量や風速の予測をチェックして、どうせなすすべもないのだから坐ろうと畳スペースで坐禅をしていたが、突然緊急警報が鳴り始めて中断を余儀なくされた。森の家は山の上なので、山全体が崩れでもしない限り避難することはないだろうが、立て続けに避難情報が入るなかでは坐っているわけにもいかず、iPhoneを操作しているうちになぜか古い写真を削除する作業に没頭してしまい、無駄にバッテリーを消費していたところにバコッと音がして電気が消えた。

朝キャンセルが決まった時は、こんなことなら仕事道具を持って来ればよかったと思った。そうでなくても時間が足りないのだから、この降って湧いた暇を無駄にしてはもったいないと、できる範囲でできる仕事を始めていた。

それが切り替わったのは、停電のバコッという音を聞いたときだった。
さっさと寝る支度をしてベッドへ入り、ヘッドランプで読書を堪能。

翌朝は電波が圏外になっていて、バッテリーはあっても通信が途絶えた。
この際、情報はなくてもいい。ひっきりなしに行き交うヘリや小型機は救助のためだろうか。ニュースがなくても被害が大きいであろうことは容易に想像できる。

リアルなリトリートに突入したことを実感。

ちなみにretreatという言葉を辞書で見ると、こんなことが書いてある。

a period of time used to pray and study quietly, or to think carefully, away from normal activities and duties:
(日常の活動や仕事を離れて、静かに祈ったり学んだり、あるいは熟考するための期間)


スマホというものはリトリートの妨げになるものであって、たとえば永平寺で参禅研修のときはお財布とかケータイ、時計などすべて封筒に入れて封をし、金庫に預けて終わるまで使うことはできない。まさに今はその時ではないか。

まだ台風のさなかであったら、情報がないのは危険でもあるけれど、もう空は晴れていて、森を吹き抜ける風がさわやかで心地よい。いっそ何もないと思えば執着もなくなる。持たないということは潔くて気持ちのよいものだ。

道路に落ちている枝をどかしながら、この期に及んでも山栗を拾いながらシューと一緒に散歩。

黒ラブのセシルちゃんちの、美しく積まれた薪が崩れていた......。

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ちょっとかわいい被災


庭の片付けをしながら、お向かいさんと話して必要な情報を得る。
電気なくても、電波なくても、ダイレクトコミュニケーションで情報が入るじゃないですか。

お散歩の途中で、ピレネー犬のくーちゃんと交流したり。

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くーちゃんも後期高齢だそう


静かな秋の空気が私にはたまらない。森が好きだ。秋が好きだ。空が好きだ。
そんな風にして、ただゆるゆると停電と通信断絶の中に身を置いていたら、私が私のあるべきところへ戻っていくのがはっきりと感じられた。

というのも、私はこの半年の間ずっと本来の自己を置き去りにして、タスクをこなすことに必死だった。CHAZENと田んぼと森の家をすべてちゃんとしようと思って(できるはずないのに)それだけに炎を燃やしていた。すべて自分で決めたことなので、やり遂げなければならぬ。穏やかさからは離れていってしまうことを自覚しながらも爆走(爆働)するしか方法がなかった。

人は時にそういう時期もあるものだし、あっていいと思うけれど、それはヨガをやる前の自分に戻ってしまっているだけのような気がした。そして、そういう自分にひどく違和感を覚えていた。ちょうど先日田んぼが片付いたこのタイミングで、ようやく自己を取り戻す時が「与えられた」のだった。

15日は俗世間の(ちょっと面倒な)用事があって、それがために早く東京に戻ることもできなかったのだけれど、この私的リトリートの時間によってサットヴァが優勢になり、相手を思いやる懐ができて、気が滅入ることに対してもそう思う「自我」に気づいて、さらっと流すことができたので、結果的にすべてが穏便に片づいた。

大抵の人は元来サットヴァな性質をもっているのだけれど、社会で生きていく中での人間関係や、多忙さの影にかくれて見えなくなっているのだと思う。そこから「退却することで、見失っていた自己に還っていく」ことが可能になる。retreatにはそもそも退却という意味がある。つまり「回向返照の退歩を学す」時間ということ。これこそがリトリートの目的なのだ。

まず日常を離れる。
自分と向き合う。
自然の中に身を置く。
瞑想と学び。


貴重な連休のリトリートが流れてしまったのは残念ではあるけれど、すべてはこの先につながっているからね。

26日からのリトリートは、交通情報をみて集合場所や集合時間の変更があるかもしれませんが、開催いたします。

退却の時を過ごしてみませんか?

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