CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

今こそアシュタンガと禅の出番です

企業で時差出勤やリモートワークの対応が進んでいるため日曜のマイソールが混むかもしれないと思い、本日のマイソールは前半7時半、後半8時半以降に来てもらうようお願いした。案の定出席率が高くて前半が満員、後半に来た人は空き待ちとなったものの、部長室フィニッシングなどの混乱がない分スムーズに入れ替えができた。

外出したくない人がいて当然だと思っていたけど、逆に練習したほうがいいと思っているらしいエネルギーでみなぎっていた。さすがはCHAZEN生、単なる気ばらしでないことがよくわかっていらっしゃる。

COVID-19に関してはまだ確実でないことが多く、どこまでやったら安全なのかわからない。わからないということが不安を増長させている。これは私の推測なのだけど、クルーズ船で多数の感染者が出た背景には、確実な情報が入らないなかで船に幽閉された人たちのストレスがあるのではないかと思う。

こういうときはカラダを動かすのがいちばんいい。
スポーツという意味ではなくて、瞑想的になれることをするのがいいと思う。やっぱりアシュタンガやね。

ということで、暫定的にスケジュールを変更し、今月中旬までは土曜日にマイソールクラスをやります。土日に人が増えそうなのでスタート時刻も30分早めます。詳細はウェブページからご確認ください。

www.chazenyoga.com


本日の入門講座にはお申し込みがなかったので、マイソールのあとに臨時の茶禅会を行った。
昨日突然決めたのに多くの人が集ってくれたし、みなさん平常心で、いろいろわかっていらっしゃり、こちらのほうが励まされたような......。

私のお布施として、「禅マインド ビギナーズ・マインド」から心に関する話を紹介した。俊隆老師のお話には、禅というよりヨーガ・スートラとも重なるインド哲学的なものも多い。そういうところが私のツボにはまったのかもしれないなと今さらながら思う。何より、「正法眼蔵随聞記」みたいに時代が古すぎたり、出家した僧侶向けに説かれている話ではない分、ダイレクトに私たちの日常に生かせるのがいい。

何箇所かランダムに読んだのだけれど、時宜にかなうと思われたエピソードがこちら。

たいていの僧侶はお金を稼ぐための仕事をしていたのに対し、俊隆老師は道元禅師の教えとして「仏教徒としての道を忠実に行っていれば人が支えてくれる」と信じて、お金を稼ぐことをせずにいた。ある日、俊隆老師のお寺で料理を手伝っていた人が米櫃が空なのを見て自分の家からお米を持ってきてくれた。それはほんのわずかだった。その人の家にも少ししかなかったのだ。けれども、それを聞いて多くの人たちがお米を持ってきてくれてお米が増え、今度は持っていない人に分けてあげた。そうして、人にお米を分けてあげればあげるほど、お米をもらうことになった......というお話。

十分ありますよと報道されているのに、トイレットペーパーが買い占められてしまう不思議。ほんとに最後のひとつが切れて買いに来た人は困っただろうに。ないときにこそ分かち合う。ないからこそ、人に差し出す。それこそがまさに今私たちのもつべき心なのだろう。

仏教徒としての教えを守っているならば仏に守られる」ということを私がカラダで理解するようになったのはこの数年のことだ。もちろん私は出家していないし在家として得度もしておらず、戒律を守るというような次元の話ではないのだけれど、以前の私は悪いことを予想するのが得意であった。今でもつい「もしも」のワーストケースを想定しまうところがある。それがあるときからなぜか、あるべきように生きていれば、そうそう悪いようにはならないという自信のようなものが生じてきて、無駄な心配がかなり減った。

正しい行いができているかどうかは甚だアヤシイのではあるが、欲を手放すと代わりに安心感が生まれるような気がする。

それを教えてくれたのは星覚さんである。星覚さんは具体的にこうしなさいということは言わないのだけれど、その在り方を見ていてそういう確信を得た。どんなに知識が豊富でも、どんなに説教が上手でも、俗世の欲にまみれたお坊さんを見ていたら、その自信は生まれなかったと思う。金銭的な欲もさることながら、偉そうに見られたい欲とか、俺が俺が欲とか、お坊さんもけっこう欲がおありになるものだ。

つくづく、禅とのご縁をありがたく思う。
アシュタンガでカラダを動かす瞑想をしつつ、禅の教えで心を正しい方向に向けていられることの幸福を思う。


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神楽坂名物の猫さん(名は忘れた)。どっしりん