CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

沈黙がもたらすもの

マイソールクラスは沈黙の中で行われる。
聞こえるのは呼吸の音だけ。
言葉を交わさなくてもエネルギーは交換し合っている。
言葉を交わさないのに連帯感が生まれている。
いや、言葉を交わさないゆえに生まれているというべきか。

ひとりでもできるアシュタンガのプラクティスや坐禅を、わざわざ集まって行うのには意味がある。

接心の目的は、修行を安定したものへと発達させることにあります。接心では言葉によるコミュニケーションを行いません。しかし、他の人々と一緒にいることは大きな励ましになります。言語的なコミュニケーションはともすると表面的なものになりがちです。しかし、言葉を発しないでいると、あなたたちの間で深いコミュニケーションが促され、心がとても繊細になっていきます。沈黙を守ることで直観が開かれるのです。
鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド 2』藤田一照訳 サンガ刊 より


すれ違う人には無関心でも、人が集まるところでは「沈黙ほど気まずいものはない」と感じる人がほとんどだ。そういうときの言語はやはり表面的にならざるを得ない。心から話したいことを話しているわけではなく、その場を取り繕うためにだけ交わされる会話のなんと多いことか。テレビをつければ、そういう会話ばかりが聞こえてくる。

おしゃべりをやめたとき、深いところにあるものが語り始める。見えなかったものが見えてくる。沈黙があるからこそ、大事なことが浮かび上がってくる。人との語らいがいっそう楽しく意義のあるものになる。

ヨガや禅に言葉を介在させる必要はほとんどない。むしろ、沈黙から得られるものこそがヨガであり、禅である。

練習の間、ただ自分の呼吸の音だけを聞くというアシュタンガの沈黙に慣れたら、何か手仕事をしたり、散歩をしながら沈黙の時間を味わってみるといい。たぶん、その沈黙を心地いいと感じているだろう。

沈黙がこわくて交わす会話は、まだ家にあるのに品薄だからと買うトイレットペーパーと同じ。
会話の多くは「不要不急」のものだ。
もちろん不要不急の会話のなかに大事なことがたくさん含まれていることは確かだけれど。

考えてみれば不思議なことではあるが、集会やイベントが中止になるなかCHAZENでは沈黙のために人が集まってくる。集まらなくても可能なことではあるが、わざわざ集まっている。

人から見たら不要不急に見えるかもしれないけれど、決して不要不急ではないと思っている。ただし、それに固執してはいけない。状況を見て必要とあらば柔軟に対応する準備はできている。

次に何が来ても大丈夫。
何が来ても来なくても、すべてはなるようになるのだから、心配する必要はない。

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噴火しても大丈夫