CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

上虚下実

坐禅は人によっては苦痛以外の何ものでもないらしい。
ある人にとっては組んだ脚が痛くて、またある人にとってはいろいろな考えが沸き起こりすぎて耐えられないと言う。私がつらさを感じるのは眠いときだ。永平寺の修行僧がお腹を空かせるのはそのうち慣れると思うけれど、3時間くらいしか寝ないで坐禅や朝課に参加するのがいちばん堪えるだろうなあと推測する。

反対に坐禅が楽しくて仕方ないという人もいた。
楽しい=安楽の境地であればいいのだけれど、「楽しくて背中に羽が生えて飛んでいきそう」と言うので、それは坐禅とは反対の方向へ向かっている気がした。一般的には楽しいことはいいことだとポジティブに捉えられると思うけれど、坐禅は「羽が生えて飛んでいきそう」なのをどっしりと肚に落としていくためのもののように思っているからだ。羽が生えそうな楽しさは、お酒を飲んで楽しいとか、恋をして楽しいというタイプの楽しさだと思う。

アシュタンガの練習も同様で、練習自体は楽しむものだけれど、ポーズに酔いしれて楽しいだけなら、それはヨガではなくなる。それとこれとは違うのだ。アシュタンガのテクニック的には軽い方がいいと思うだろうけど、フワフワしているだけなのは不安定で、心にも不安定さを生む。ただし、初心者は難しいことを考えずにただ楽しいから続けるだけでOK。でも、慣れてきたらyogaの練習にしていってほしいね。

東洋医学の本を山のように借りてきて読んでいるけれど、そこに出てくる「上虚下実」という言葉が表すように、下半身(土台)をどっしりと落ち着かせて、上半身はリラックスして柔軟というのが理想の身体条件。たとえば武道などはまさにこのとおりで、下半身を安定させて上半身を縦横無尽に動かすことが強さを生む。ダンスなどでも土台や軸はブレないように安定させておくことが重要だから、東洋に限った話ではないのかもしれない。

精神的な意味でも「上虚下実」は強さを生む。
大地にしっかりと根ざした強い土台があれば心はいくらでも自由になれる。土台ができてないと、楽しさで羽が生えて飛んでったら、それは迷いになるだけだ。だから、アーサナの練習でグラウンディングを意識したり、坐禅でどっしりと肚を据えることが、肉体も精神も落ち着いて、より自由自在になるための訓練になる。下半身が安定すると、自分が信じられるようになると思う。いろんなことが気になりすぎたり、こわいことがたくさんある人は、ヨガや坐禅でしっかりした土台を作るといい。

頭寒足熱も似たような観念かもしれない。
血流の問題なのだと思うけれど、頭が熱くなると気が上ってしまうから、下半身を温めて気を全身にめぐらすという意味もあるような気がするな。

すっかり下半身が虚してしまったおじいたんだけど、ワン!と鳴く声はまだ力強い。

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おじいたんでもかわいいんでし