CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

シンクロニシティ

先日の日曜日、星覚さんのオンライン坐禅会でのこと。
星覚さん以外はみなミュートにしている状態で坐禅をしている最中に、カタカタカタカタ......と小刻みに鳴る音が聞こえてきた。とっさに地震だと思って構えたものの、まったく揺れを感じない。揺れてはいないが、音は続いている。音はしているけど、どこで何が音を立てているかはわからない。地震でもなさそうなので坐禅に戻った。

坐禅会が終わったあと、NHKのニュースサイトを見ていたら「福島・宮城で震度4」とある。やっぱり地震だったかと納得。東京は震度1くらいだったのだろうと各地の震度を見てみたら、東京エリアでは震度1すら検知していない。あの音はなんだったのだろう。

坐禅会には仙台で参加していた人がいて、あとでメールしたら坐禅中にけっこうな揺れがあったそうだ。その仙台の揺れがオンラインを通じて伝わったのじゃないか。ばかげた考えかもしれないけれど、そう思った。もちろん、坐禅中はミュートだし、カメラもオフだから、ニュースを見るまで地震のことは知らなかった。だけど、異空間で坐禅していても「時」は共有しており、そこからごく微細な振動が伝わってきたのではないかと解釈した。

ま、またいつものエセ超能力ばなしなのだけど、昨日読んでいた本に「シンクロニシティ」という言葉が出てきたとき、あ、それだ、共時性だったのだと気づいた。

『いのち問答』というその本は、「僧医」である対本宗訓と精神科医香山リカとの対談本である。

「僧医」というのは字の通りお坊さんの医者ということ。もとは臨済宗のかなり偉いお坊さんだったそうで、四十半ばにして思うところあり、その地位を辞して医学部に入学して医者になられたというユニークな経歴に興味が湧いたのだった。

以下引用はすべて『いのち問答』角川書店より

対本:......シンクロニシティは、意識している人にはけっこう頻繁に起こるものと言われています。われわれ宗教者は本来、シンクロニシティに敏感な存在と言えるかもしれません。科学的なものを超えたところに深く根を張っていますから、普通の人以上にいろいろな現象と遭遇する可能性を持っています。
患者さんと向き合うとき、私はいつも”すべてのものには意味とつながりがある”という見方をしています。医学的なロジックでは説明できない、その患者さんに固有の背景に目を向けながら患者さんに接するのです。


これを読んで、西洋医に対して感じる「隔たり」というかよくわからないモヤモヤしたものの正体がわかった気がした。

ヨガだの仏教だの、インド思想やその実践法の世界は「医学的なロジックでは説明できない」世界なのだ。そういう世界に棲んでいるとエビデンスがないことも信じられるようになる。それは科学的な根拠がすべての人にはなかなか信じられないことなのかもしれない。宗教者ではないけれど「科学的なものを超えたところに深く根を張っている」人間として、この科学と非科学の間を取り持つ人物の存在に何か希望のようなものを感じた。「僧医」とは天上界と地上界を媒介する巫女のような存在かもしれない。

こういう「僧医」が病院ごとに存在していて、病気を治すだけではなく、ときには死をも受け入れられるような心のケアを含めた医療を担ってくれたらすばらしいだろうと想像する。緩和ケアではすでに取り入れられているけれど、通常の医療にも宗教的な心の問題をカバーすることが求められているような気がする。

医療は科学以上の問題だ。
少なくとも私はそう思っている。どれほど優れた科学や技術を持っていても、この世の問題は永久に解決しない。この21世紀のテクノロジーをもってしても全世界がコロナウイルスに翻弄されてしまうのだし、これが収束してもまた同じような脅威は現れるだろう。

お釈迦さまはとっくの昔にその解決法を見つけているのに、今もなお人は苦しみ続けている。それは、人間が「我」と「欲」から離れられないからなのだろうね。

西洋医学の限界はエビデンスでしか動けないことにあるのではないか。そんなことをふと思った。そして科学で証明できないことへの関与は医者としての信頼を揺るがすので、無意識に排除するシステムが作動するのかもしれない。それが西洋医学なのだから仕方のないことなのだが、そこに柔軟性を加えたら現状の医療の問題が少しは解決するように思える。

ともあれ、お坊さんは死んだ後ではなく、死ぬ前に世話になっておくべき存在だ。

医学生時代の解剖実習で、怖くて実習室に入れなかった女子学生へアドバイスしたという言葉が印象的だった。

ちらっとしか見ないから怖い。ぐっと見据えて目を離さなければ死体といえどもそれほど怖くない。直視して目をそらさなければ、なにも怖くない。

嫌だけど避けられないものに対しては、逃げ腰にならず、むしろ進んでそこに向き合うことで克服できることが多い。お試しあれ。

その他にも、日ごろ私が感じている死生観や臨終のあり方、捉え方が言語化されていて、そのまま拝借して遺言にしたいくらい。お釈迦さまの説いた仏教がもっとちゃんと、もっと多くの人に伝わったらと願わずにはいられない。

たとえば、香山リカが「親が死んだ時の悲しさを想像しては憂鬱になる、やや病的な状態が10年以上続いているが、自身が精神科医でも治療できない」と嘆いているくだりがある。私からすれば、それは精神科医が治療するよりも、仏教を学んで(理解して)実践したほうが確実に治る病なんだよね。

シンクロニシティからずいぶん飛躍してしまったけれど、不安や恐れから解放されたい方はぜひ仏教を学んでください。どこから始めたらいいか、何をしたらいいかわからない方はまずCHAZENへどうぞ。

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坐禅会のあった日の満月

秋に想う

お盆のあとから空が秋に変わり、今朝は1本から8つの朝顔が咲いた。朝顔の季語が夏ではないと知って意外に思ったけれど、暦の上では今はもう秋。季節は人間の思惑などおかまいなしに移ろっていく。

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デコレーション的な


毎日ひっきりなしに救急車が行き交っている。隣が消防署で、病院の多いエリアでもある。今医療現場はどんなことになっているのだろう。感染した人たちの、溺れているようだという呼吸の苦しさは想像するだけで十分におそろしいし、スタッフは気力だけでなんとかもっている状態だろう。

シャッターの閉まったままの飲食店の張り紙に、休まざるを得ない人たちの心中はいかなるものかと思いを致す。マスクのために呼吸も妨げられている子どもたちもかわいそうなら、行動を制限されて鬱憤のたまった子どもの親たちも気の毒だ。

オリンピック選手でなくとも、みんなみんな精一杯がんばって生きているんだよなあ。みんなみんなが金メダルだよなあ。

午後ウェブサイトの更新作業をしていてふと外に目をやると、朝顔がしおれてひしゃげて散々な姿になっていた。

朝顔やサイレンの音鳴り止まず 茶味子


ところで、今週からマット拭きスプレーにユーカリシトリオドラを配合しているのだけど、某嬢がその匂いを「山椒」に似ていると言う。ユーカリシトリオドラというのは、ユーカリなんだけどぜんぜんユーカリと違う香りで、柑橘の香りが強い。シトロネラに近い匂いだと思うので山椒というイメージがわかない。

ほんで「山椒ってえのはよ」とベランダから山椒の葉っぱ(分校の忘れ形見)をちぎって、数名に嗅がせてみる。

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黄色い鉢が山椒(わかりにくいけど)


それでも、マット拭きぞうきんにシュッとして、やっぱり山椒の匂いだと言う。うなぎの上にかかっている山椒の匂いだと言う。

そんな話をしていたら、無性にうなぎが食べたくなってきた。最近体調が復活してきてお腹ペコポコだったから。そういえば、以前ギーターだったかスートラ入門だったかの会の打ち上げに、浅草の鰻屋さんに行こうと話していた(けど実現してない)ことを思い出した。

この十数年ほどは4年に一度鰻の会をしているのだけど、来年が鰻イヤーだ。来年の目標をそこに設定しよう。飲めない鰻の会は残念すぎるので、そのときまでに禁酒令がなくなっていることを願う。

今は写真だけ見てお腹いっぱいにしておこう。

chayoga.exblog.jp


最後は食い気に走るのもまた秋なり。

問答無用

万国共通でマイソールクラスに浮上するのがマットの臭い問題。

どんなにきれいなお姉さんだってずっとお風呂に入らなければ臭くなるのと同様、きれいなお姉さんのヨガマットだって使えば汚れるし、ずっと洗わなければ臭くなる。

CHAZENでは毎年、気温の上昇とともにマット洗い警報を出しているのだけれど、今年は出さなかった。うっすらと匂いを感知はしていたものの何も言わなかった。できたら、自主的に持って帰ってほしかったのね。昨年みんなにマット洗い用のマジックソープ渡して、定期的なお手入れを促してもいるから。

chazen.hatenablog.com


が、気づけばあっちの棚もこっちの棚もクサくなってる。

誰だってマット持ち帰って洗うのは面倒だし、あわよくばそのまま使い続けたいさね。自主性に任せておくと、意識の高い数人ほどしか持ち帰らないということがわかった。

なので、日曜がムーンデイで連休になる今日のタイミングで持ち帰って洗うようにお触れを出した。いつもは「仕事やら何やらの都合があるわけだから、それぞれの都合のいいときに洗ってきてね」というスタンスだったけど、今度のは「明日持って帰りやがれ!」てきなニュアンスを含むちょっと強めのアラート。

そうしたら、今朝はみんなマットバッグ持参でやってきた。「ヤべっ」っていう心の声が聞こえたw。

たまにはこういうのもいいな。
やろうと思ってたんだけど......ってことよくあるじゃない?
なのに、人から言われるまで放っておいてしまう。

そのうちやろうかな......
先週やろうと思ってたんだよね......
来週やろうかな、でも来週はアレがこうだから......

有無を言わさずっていうのは、そういう迷いがなくていい。
民主的であることは同時に迷いも生まれるので、ときにグダグダ、ダラダラという結果にもなるが、明日!と言われたら迷えないから、気持ち的にスカッとするし、洗うという行為だったら結果は爽快で清々しいハズだ。

これぞ、問答無用の永平寺的な清々しさ。
私物を持たない修行僧は限定された持ち物を「所有」ではなく「護持」する。「護持」というのは大事に護りながら持つということ。ヨガマットは毎朝の練習に欠かせない存在だから、大事に「護持」したい。

そういえば、アシュタンガヨガロンドンでは、全員マットを持ち帰る日が決められていた。置きっぱなしで練習に来なくなる人対策なのかもしれないけれど、それ採用しようかな。


ちゃんと持ち帰ってるかチェックする理事長。

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よしよし


理事長は昨日丸洗い済み。
マット以上に犬が臭かったらシャレにならん。

楽しいなら間違いない

お盆休みの大雨降りとなった本日のスートラクラス。
参加者も少なめだから、いつもと違うことを試みてみた。ふだんは私がまず講義形式でスートラの解釈をして、最後に感想などを言ってもらうやり方をしているが、きょうはまず参加者自身が説明する立場になって考え、自分が理解していることと、わからないことを明確にしてもらうことから。

その後、新しい人から順に本日の経文についての理解と疑問を投げて、(私が答えるのではなく)先輩方にコメントしてもらうという形でキャッチボール的なやりとりを行った。いつも私が説明していることを受け身的に聞いて納得するよりも、自分で考えて何かを話すことで見えてくるものがあるのではないかと思ったからだ。

キャッチボール、想像以上にうまくいった。
新人さんたちの発言は先輩方のコメントを引き出すのに十分な内容だったし、先輩方の理解もなかなかのもので、しかもなんらかの気づきを伴ってもいた。テストをしているわけではないので、正しいことを言っているかどうかでなく、そのエクササイズを通して何を思い何に気づくかだからね。

それにしても、改めて思ったのは、何かの資格がとれるわけでも、業務上役に立つわけでもない、つまり一銭の得にもならないことによくみんな真剣に取り組んでいるなあと。ある意味達成する目標のないことを続けているという無目的性が感じられてうれしかった。「無目的」って言ったらシャバの感覚ではディスってるのかと思われそうだけど、褒め言葉ですよ。

もっと褒め言葉らしく肯定的な言葉で言えば「誰からも邪な欲を感じない」ってことかな。だからキャッチボールがいいカンジにできるのだと思う。キャッチボールは、速球投げて「どうだ受けてみろ」ってものじゃないでしょ? 相手のことを思いやりながら投げたり受けたりするわけじゃない? そういう雰囲気がCHAZENらしくていいなと思ったのよ。

あと、新しい人たちが「難しいけど楽しい♡」と言っていたことが印象的で、楽しいと思えるのは感覚的にスートラを理解しているということ。言語的に頭で理解できなくても、直感ではわかっているってことだから。「楽しい」って邪道だと思っている人もいるかもしれないけど、実はこれが正しい道。アシュタンガの朝練だって続けられるのは「楽しい」からだよね。

私はいつも毎日やれ、サボるなってけしかけているけれど、それは本当にやりたい人に対してだけ。練習が楽しくないという人には「無理して来なくてもいいよ」と言っている。それでけっこうな数の人が本当に来なくなったしさ。そうやって淘汰されているから楽しい人ばかりが残っている。

アシュタンガの練習は歯を食いしばってやるようなものではない。楽しくない人にとっては、本当の意味で何の役にもたたない、時間の無駄遣いでしかないのよ。もちろん、長く続けていると何らかの事情で楽しくないときもあるけれど、その先にある楽しさがわかっているならそこは乗り越えられるはず。

スートラも然り。
楽しくなければ無理して参加しなくていい。

......とは言いながら、11月から新しく第1章から学ぶクラスを始めることにしたので、今までに途中で挫折した経験のある方、新たにヨーガ・スートラについての学びを始めたい方は、ぜひこの機会をお見逃しなく。

現行のクラスは9月と10月のあと2回で一旦終了し、第4章は不定期開講で続行していくつもりです。詳細は近くまた改めてご案内します。


きょうのおやつはS子の手作りバナナケーキ。

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しっとりふわふわでウマウマ

魂がなくなる

先日、沿道に自転車競技の観戦者が詰めかけたニュース記事のなかで、ざっと見100%の人がスマホをかざしている写真を見て違和感を覚えた。どうしてもリアルで観戦したかった気持ちならわかるけど、自粛が呼びかけられている中、密になってまで観戦するならなぜそのふたつの目で本物を見ないのか。

先日の解剖学講座では、プロジェクターに映し出されたPPTのスライドを受講者の大半がスマホで撮影していて、ひどく気になった。2日間で300枚近いスライドが映し出されていたのだけど、スライドが変わるたびにあっちでもこっちでもカシャカシャ音がするのは異様な光景だ。理由ははっきりわからないけれど、それは居心地の悪さを感じさせるものであった。

リアルで参加する意味は、情報を漏れなくキャッチすることよりも、その場全体に流れる空気を感じることであり、言葉で発せられる以上の話者から伝わるナニカであると思う。スライドの情報を1枚漏らさず持ち帰ることが目的なら、Zoomで受講してスクリーンショットを撮ったほうがいいんでないかい?

そんなことを思っていた矢先、武術家の光岡先生の講習会を主催されている方から、板書の撮影が禁止になった旨のメールがあり、一億総スマホ時代の「写害」が顕在化していることを実感した。これまでも参加者が講義のときに写真を撮る場面は多く見てきたけれど、気になったことはない。それが自然な流れであるときは気にならないものだ。

光岡先生は飛び抜けてプリミティブな方。
ハワイで裸馬に乗っているような、すべてを直感で悟っているようなイメージがあって、天から特別な能力を与えられているような気がする。だから「撮影をすることで何か欠けてしまう」と感じるのだろう。

バーチャルでなんでも済んでしまうこの時代だからこそ、せっかくの対面のリアル講義では知識ではなく、言葉ではないナニカを、カラダ全体で、五感で、アナログに受け止めてほしいと思わずにいられない。大事なのはホワイトボードに書かれたその言葉ではなく、その場で感じたあるいは気づいた自分の内側にあるナニカなのだ。

先日の解剖学講座もちょっとそんな風味が漂っていた。
「心を虚しくすれば身体は実る」とかね。

昔の人は写真を撮ると魂が抜かれると信じていたらしいが、便利だからとノートをとる代わりに撮っていると、そこに魂はなくなるような気がする。光岡先生の言われる「何か欠けてしまう」というのは魂のことかもしれないな。

また光岡先生の武術講座を受けてみたくなった。

chayoga.exblog.jp

そもそも武術に興味を持ったのは、最初に光岡先生のワークショップを受けたころ、アシュタンガヨガのアーサナ練習をいかに自然体で稽古するかということをテーマにしていたからだった。それがわかりかけてきたところで腕肩が動かなくなり、最近はもうすっかりそんなこと忘れていたけれど、中医学でオモテとウラという観念が出てきたときに、中国武術のことを思い出した。今なら理解も深まりそうな気がする。

この不安定な世の中をしっかり地に足つけて渡るには、強くしなやかなアタマとカラダを持ち続けること。そのための鍛錬はカラダで行わねばならない。アタマだけわかっていても、いざというときには役に立たないからさ。最近アタマ偏重で肉体を磨いてない私はちょっとアブナイかも。

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急に涼しくなってお腹を壊し、腹巻着用中

自己を正しく見積もる

今朝のマイソール参加者......5人。

ワクチン副反応組に、お盆休みでお出かけ組などが重なったらしい。休暇で出かける予定もない私なので、今年は夏の休みをなしにしたけど、お盆時期は練習生も理事長も(もちろん自分も)疲れているので、やっぱり来年は休もうと思った次第。

ヒマなので、理事長の相手をして差し上げたせいか、忙しい日ほど不機嫌になられる理事長も、今朝はノーオムツで問題なし。

それでもヒマなので、掃除してみたり、プチシューとちびシューで遊んでみたり。

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抱っこちゃん


さて、お盆真っ只中の15日にスートラクラスを設定しているので、漢字だらけの中医学をしまいこんでサンスクリットだらけのスートラにモードを切り替えた。

5月にいったん訳しておいた第4章の推敲にとりかかったら、ヤヴァイ、すっかり忘れている。あんなに悩んであちこち調べたのにまた同じところでつっかかってる。注釈本にあたると、すでにちゃんと線引いてあったりして愕然とする。アラカンの記憶は3カ月もたないらしい。これからはなんでも途中の試行錯誤をメモしておくことにしよう。

うすうす気づいていたことだけれど、下降の一途をたどる能力を受け入れず過信しているんだな。肉体(筋肉から内臓から)や脳力の衰えを経験値でカヴァーしているだけで、間違いなくパフォーマンスは落ちている。それを認めたくないがためにがんばりすぎるとオーバーワークになって、知らず知らずのうちにどこかにしわ寄せがくるのだ。

いつまでも若い気持ちでいること自体はいいのだけど、自分自身をリーズナブルに見極めることができず、経年変化を考慮せずに無理するから病気やケガ、痛みにつながるということを東洋医学から学んだ。同じ年齢でも個人差があるので、かならずしも世間一般の枠で考える必要はないけど、自分史上では確実に老化しているわけだから、そこを見極めて自分に合った適切な活動と養生をしていくべきである根拠が明確になった。

しかし、そのリーズナブルに自分を見積もることがいちばん難しい。

というのも自分のことに関してはバリバリ主観というか、いらない考えなんかが入るわけさね。過去のトラウマによって反射的に無意識的に目をつぶってしまうことがあったり、願望と現実がごっちゃになってしまったり。認めたくないもの、隠しておきたいことがたくさんある。そういうものに囚われた自分が正確に自分を見つめられるわけがない。だからヨガや坐禅が必要なの。これまでにくっついてきてしまった心のゴミを綺麗さっぱり掃除するのがヨガや坐禅なんだからさ。

自分を縛っているもの、自分を限定しているものから解放されれば、その見積もりはかなり正確になってくると思う。だから、養生は食生活などの習慣と同じくらい、精神的&肉体的な鍛錬が必要不可欠。漢方薬よりもまず日常の習慣ということで、東洋医学・ヨガ・禅がリンクする。そのあたり、またスートラクラスや今後の漢方喫茶で詳しくお話しいたします。


プチシューとちびシューその2

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かたぐるま


かわいーな。

禅風味の解剖学講座

楽しみにしていた夏期講座の解剖学。
これは医学気功整体科のカリキュラムに組み込まれているもので、中医中薬専攻科の私は志願して受講したのだけど、ふだん教わることのない先生であることがワクワクその1。そして、ちょうどムーンデイが日曜日という幸運に恵まれ、2日間の講座をリアルで受講できるというのがワクワクその2。日中だけとはいえ2日連続の留守番が心配だったが、シューには泣いてもらうことにした。

ところが、この台風よ。
てんかんの発作発生因子である台風の中、朝から夕方まで理事長をほったらかしにしたら、発作をあおるようなものなので、午前は学校で受講して午後はZoomという折衷案で対応した。

講師の先生は、北京本校の出身ではあるが西洋医でもあり、整形外科で手術をされたり、小児科や栄養学にも携わって、臨床と研究の両分野を歩かれてきたということで、なんかおもしろそうだなというのが第一印象だった。講義が始まるとZoomで受講中の人から声が小さい、ボードが見えないと苦情が続々入るのだが、先生はどこ吹く風といった感じで続けていらっしゃる。

ゴリゴリの解剖学かと思いきや、冒頭で「哲学」という言葉が飛び出してきた。菩薩の話が出てきたり、「われわれは主観の世界に生きている」なんてことも言われる。インド思想か? と気になったが、そのうち筋肉の話になり、普通に解剖学が始まった。

もっと内臓系寄りの話が中心かと想像していたのだけれど、気功整体科の授業のせいか前半はヨガで習った解剖学と似たものだった。しかし、時おり脱線しては先生の思想が入ってくるのがたいへん興味深い。ただの解剖学ではなく、めっちゃ観念的な解剖学なのだ。そのうち骨盤のところで坐禅の話になったりしたので、坐禅されているのだろうとは思った。

2日目の今日は午前Zoomで午後から学校へ行くつもりだったが、午後になっても雨が止まず、本郷まで30分歩くのがおっくうだ。でも、先生に禅のことを聞いてみたい。いっそ伝家の宝刀でタクるか?とも考えたが結局Zoomで受講した。

今日はまたさらに観念的な話がたくさん出てきて、この方は間違いなく禅思想に影響を受けていると確信した。そう思うと、あれもこれも聞いてみたい気持ちが募ってくる。そして、この先生はどんな質問をしても困らないだろうと思った。

ただ、まわりの人たちがドン引きすることが想像されたので、心の中の「ナゼナニおばさん」を押し入れに閉じ込めておいた。そうでなくても、受講されている方は、先生のつかみどころのない禅問答のような話には引いている感じがしたからだ。

で、最後の質問タイムが終わり、ありがとうございましたとZoomの人たちが退出し始めたタイミングで、「興味本位の質問なのですが......」と断り、禅をされているかだけ聞いてみた。曹洞宗という言葉が返ってきたので、どちらで修行されているかを聞いた。少し戸惑われているようなので、聞くべきでなかったかと思っていると、永平寺......の近くにある天龍寺とのお返事。

あ、テンリュウジね。
ええええー!? 天龍寺かー?

ご存知ない方のために説明すると、天龍寺とは禅の旅でお世話になるCHAZENゆかりのお寺。まさか解剖学の先生と天龍寺のご縁でつながっているとは想像だにしていなかった。あとで考えると、その答えを期待も想像もしていないのに、なぜそんな不躾な質問をしたのかがわかってゾゾっとなる。

あまりに個人的な話になってきたので詳しくは聞かなかったが、たぶん笹川老師のお弟子さんのようで、今週は佛生寺の御開帳に行かれるという。えー、星覚さん今佛生寺にお手伝いに行ってるしー。しかし、そんな話をするのはさすがに憚られたので、お礼を言ってそそくさと退出。ああ、びっくりした。

佛生寺の御開帳は33年に一度で、十一面観音好きの私は数年前から拝観するのを楽しみにしていたのだけれど、今は十一面観音さまよりもシュー太郎観音さまをお世話することが優先なので、次回92歳での拝観に賭けることにした。ま、そのときは自分が仏になってる可能性大だけどね。

肝心の解剖学についても、最近膝の痛い人が続出したりして解明したいことがあるので、課題も続出。次々にやりたいことができて困るわー。来週はスートラクラスだし。きっとまた脱線していろいろしゃべりそうやわー。よろしかったらおこしやす。

この寝方も解剖学的に理解したい