CHAZEN三昧

アシュタンガヨガと禅のある毎日

インド思想が視点を変える

さて、前回の続きです。

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前回は「今、ここで、この時に在る」実践をすることが考えすぎ傾向の人に有効だと書きましたが、私の場合はその実践の背後にある思想を知ることで終わりなき堂々巡りの出口が見えてきて、より平穏な毎日がもたらされたように思います。

インド思想といっても諸教諸派諸説ありますが、最大のポイントをざっくり述べると、

あなたが考えている自分というものは、ほんとの「自分」じゃないんですよ。

とまあ、そういったようなことです。

ヨガ的には私たちが「私」と思っている自分と、ほんとうの自分<真我>を一緒にしてしまうことが苦しみをもたらすと考えます。仏教的には「真我を含め自分などという実体はない」と考え、古来より侃侃諤諤、喧々囂々、議論が交わされていますが、重要なのは真我のありやなしやではなく、私たちが考える自分というものが、心という機能(物質)が生み出した妄想あるいは誤った認識だということです。私にとってはただ、この今まで当たり前に思ってた自分というものを疑うことで、面倒な悩みが片付いていったのでした。

たとえば「私ってダメな人間」という思いがあったとします。その場合ヨガ以前の私が是正しようとしたのは「ダメな人間」というそのネガティブな考えでした。それをダメじゃないようにがんばろうとか、ダメをヨシとするとか、なんとかポジティブな方向にもっていくことで対処していました。ポジティブシンキングには一定の効果があり、些細なことならクリアして前に進むことができますが、単なるカラ元気ともいえます。ネガティブソートを無理やりポジティブにしても、また同じ思考に戻ってきてしまうのです。

これをインド思想式に考えると、着目すべきはまず「私」という観念です。「私ってダメな人間」というときの「私」とは何か? というところからスタートすると、徐々にではありますがいろいろなことがうまく収まってきました。それまでの私がいかにエゴ、あるいは我(日本的に我が強いとか言うときの我=自我)にとらわれていたのかが初めて見えてきたのです。私には青天の霹靂ともいえる大逆転の思想でした。ヨガとは「私」というものの正体を見極めること。ひところ流行った自分探しとは違いますが、ある意味でヨガは自分(真我)探しの旅なのです。

人は「ダメな人間」というほうに気を取られて、「私」の存在は絶対的だと思い込んでます。正気であれば誰もがはっきりと実感している「私」の存在だけはリアルな真実だと思っている。いや、思いさえしないほど無意識に自覚している。これをインド思想ではavidyā(無明)と言います。前々回あたり、ちょうどスートラクラスのテーマでした。

2-5 anityāśuciduḥkhānātmasu nitya śuci sukhātmakhyātiravidyā
無明とは、無常、不浄、苦、非我を常住、清浄、楽、我と認めることである

無明というのは、煩悩の元となる認識の誤りのことです。非我(ほんとうの自分でないもの)を我(ほんとうの自分)と認めてしまう認識の誤りからすべての煩悩が生じるというわけです。つまり、この認識の間違いに気づかないと、何十年実践を積んでも迷いから抜け出すことはできません。

私がよく言う「インド思想で当たり前をひっくり返す」というのは、無明に気づくことです。しかし、これは頭でさえも理解しにくい(理解したくない)上に、頭では理解できても肚で理解するまでに長年の実践が必要です。ただ、知ると知らないでは大違い。いつも同じ位置から物事を眺めているのと、まったく別の角度から眺めるのでは同じ物事でも違って見えます。そういう視点をもたらしてくれるのがインド思想なのです。

ふりだしに戻ると、私には画期的だったこの思想も、根の深い悩みを自覚していない人には意味不明で、伝わらないのではないかと思ったのがこの連続記事の発端でした。

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ところが書いているうちに、伝わりにくいのはまだ気づいてないだけなのだとわかりました。まだ問題の存在や問題のありかに気づいてないのでピンとこないだけなのだと。人にはそれぞれ「その時」がありますから、興味が湧いてきたときが学び時なのです。そして、どんな悩みやストレスであっても、ヨガや禅の実践が役に立ちますので、思想が理解できなくても、体を動かすヨガや坐禅、日常の生活態度など、入りやすいところから始めてもらえたらうれしいです。

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